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他人の期待について

若い人に言いたいのは、「自分が犠牲になっていくらかの人を幸せにするよりも、いくらかの人を切って自分を幸せにすること」を選べということ。自分の不幸の上に成り立った人の幸せの数より、自分が幸せになることによって人を幸せにできる数のほうがずっと多いよ。(小池一夫)

 

現在16:47このツイートは先ほどTwitterで確認したものである。

 

 

今回のテーマにふさわしいツイートであったので挙げてみた。

 

自分の幸せはさておいて、他人を幸せにしてしまうような自己犠牲的な幸せ感、ボクも多分に持っている。たとえば、漫画ワンピースでのサンジの物語。

 

周りには広大な海、小さな丘の上にはまだ子どもだったサンジと、海賊船の船長の二人だけ。

同じ海賊船で過ごした仲だが、海賊に襲われ全てを奪われ、孤島に残された二人は敵同士だった。何日間分の食料はあった。水もあった。

しかし、何日も過ごしていると次第にその食料も水も底をついてくる。

船長はすこしだけサンジに食料を分け与えた。船長の姿は大きな岩に隠れていて見えない。顔も観たくないからその大きな岩を隔てて二人は過ごしていた。

船長の放ったパンでなんとか飢えを凌いでいたサンジ。

船長は孤島の上に現存する、すべての食料を管理していた。

しばらくしたある日、やはりそれはやってきた。

飢えである。

 

サンジはもはや限界だった。寄越せといっても船長は寄越しもしない食料。

一人で全部食べていきのこるんだ、、という船長。

 

サンジは船長を襲うことにした。あの大きな岩の後ろには船長がいる。

襲って、殺して、食料をうばう!そして生き残る!

サンジの決意だった。

 

サンジは意を決して、岩の後ろに飛び込んだ!!

 

船長は痩せ細った体で岩の後ろにもたれかかり、微動だにしなかった。

目をつむって顔はふせがちで、息はしていた。

 

もう、食料の袋はまだまだ一杯に膨らんでいた!

サンジは袋に飛びついた!!その袋の中身をすぐさま確認した。

 

その中身は船長がとんずらしたときに持ってきていた唯一の資産、宝石なのだった。

もうどこにも、パンのひとかけらだってない現実だけが残った。

 

サンジはもう一度船長へと視線をうつす。

よくみると、船長の右足が無くなっている!

 

船長は適当な握りこぶし大程の岩で、利き足ではない右足を切断し、食っていた。

飢えをしのぐ方法がそれしかなかったのだ。

 

 

船長はおそらくほとんど逃げてきた舟から持ってきた食料を口にしておらず、サンジにすべて放っていたことを、サンジは感じていた。

 

 

このサンジの物語は、船長の自己満足によるところがおおきいのかもしれない。

サンジの幸せの為に食料を放っていたのではなく、船長がサンジを見殺しにしてまで、自分が生き残っていたくはない、という意志が在るだろう。

 

しかし、船長は自分の足を食べてまでも、自身は生き残ることを選ぶ。

 

僕が他人の期待に応えて自分の幸せを投げやりに、他人の幸せを願うような行為に及ぶ時、

 

自分にとってそれはとても納得し難い感覚でありながらも、表層上ながら相手が喜ぶならば、(声や笑顔などで)受け入れてしまうような、なんて柔な判断しかつかないのだろうと思ってしまう。

 

もっと自分にとって得するか、損するかを考えれば良いことを、そうは出来ない何かしらの不可抗力を感じてしまうのは何故なのだろうか。

 

ひとえにそれは僕が、視覚的な情報や聴覚的な情報に、僕の感受性が頼りすぎているからだと思う。

相手の笑顔や、調子のいい声色に弱い僕は、同時に相手が怖い形相をみせるときや、尖った声を出すときの恐怖にも関連している。

 

僕は相手が怖いのだろうと思う。つまり僕は人間の感覚というものは声や顔や行動からよみとるしかないのであり、あるお願いされた行動を断ることで起きる相手の何らかの動作について、奥底まで追求し感受することはできない。

 

だから、表面的な対応になる。お願いされたらよほど嫌ではない限りは、受ける。

嫌われたと思ったら、やはりそれは避けざるを得ない。

 

声色や、笑顔、行動、という情報で僕が感受した場合、それらの裏の行動をよむことはなく、そのままを受け取ってしまう。

 

よって、僕は他人の期待については、それが視覚的、聴覚的に現れている場合、やはり簡単にうけとってしまい、自分も力一杯はげもうとする。

 

だから、僕は幸せになれないのかもしれない、馬鹿なのかもしれない、と少し考えるようになった。

 

ただし、馬鹿でもできることはいっぱいあると思うし、希望を失う理由にはならないと、思っているけど。

その辺をキチンと表現してみたいように思う。

 

間違いは正せば良いのだ。そして、間違いに気付くところまでは案外簡単にいく。

その間違う流れを換えることがなかなかに難しいことであるのだ。

 

追記:只今、午後23:58 午前に書いたテーマにぴったりの文章を見つけたので掲載しておくことにする。

 

文献:村上春樹全作品1999-2000(3)短編集

 

題名:七番目の男

 

「私は考えるのですが、この私たちの人生で真実怖いのは、恐怖そのものでは在りません」、男は少しあとでそう言った。「恐怖はたしかにそこにあります。・・・・・・それは様々なかたちをとって現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかしなにより怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じようとしてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。私の場合にはーそれは波でした」