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僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

現実脱出論評2

第二章;現実からの脱線

 

いま、私たちは多くの時間をどうやら「現実」という、社会が社会らしく機能するための、人々が作り出した特別空間を生きている。うまれてすぐの間、その”現実”と呼ばれている空間は僕たちには認識しえなかっただろう。しかし、両親や、学校の先生、幼稚園の先生など、大人と呼ばれている人間と時間を過ごしていく中で、現実に少しずつ触れてゆき、その存在を認知してゆく。子どもは自ら発する疑問や、興味をドンドン周囲に合わせるように、同じくしてゆく。つまり、疑問から発する"問い"に対しての答えが答えられるものだけを、"正当な問い"として受け入れられるような状況があるように思う。

残念ながら、大人達にうけいれられなかった、子どもから発した疑問は大体の場合、そのまま忘れ去られる事になるのである。僕自身、そのような経験があるから、このようにいま、話す事が出来ている。

例えば、僕が幼かった時代に車からみえた紅葉した山を指差して言った。「どうして山が赤いの?」と。母親はそれにたいしてこう答えた。「あれはね、紅葉っていうのよ。」と。僕はどうして赤くなるのかを訊ねたのだけれど、母親は、その赤くなる現象を僕に伝えただけだった。どうして赤くなるのかを一緒に考えてはくれなかったように覚えている。子どもの疑問というのは、まるで初めて訪れた惑星の冒険であるようなところから発する物で、先人たちにたいしては、もっとも不思議で当然な問いを呼びかけることが多い。そのような問いには人間の想像力を以て、ありもしない現実を創りだし、いろいろと考えてみることが出来る。それは別に嘘をつくようなことではない。ありもしないが、あるかもしれない、というちょっと愉快な創造の瞬間なのだ。

僕は歳をとっていくにつれて、質問していいことと、悪いような気がすることを感じるようになった。おそらくこのような体験を何度か繰り返して行くうちに、相手が答えられないような質問をすべきではない、と察知したのだろう。子どもを卒業するということに、なんでも質問しない、ということが僕の中では組み込まれていた。大人は賢い質問と、そうではない質問を区別していることが、子どもの頃の僕は解っている気がして、質問するのを僕は恐れていた。

こうしてどんどんと、現実から脱線するような機会が減っていったのだろうと思う。しかし、現実以外の、言葉では説明しようがない、自分が感じている感覚、、は29歳の現在に至っても体感することがあるのは事実である。

坂口さんは現実脱出論で、"他人とみている色がおんなじだとなぜわかるのだろうか?僕が見ている緑という色は、相手からしたら、僕の色でいうところの赤色を、緑色だと認識しているかもしれないではないか。"というようなことを書いている。また、"音楽や、書物を聴いたり、読んだりする場合には、具体的な情報である曲の長さを気になんてしていなくて、ただ、それによって感じられる言葉にならない知覚を探し求めている感覚におちいるのだ。"という内容で示されている。

僕自身も、まったく同じ内容のことを考えていたので、笑っちゃうくらいに何が言いたいのかがわかるのだが、これとは別に僕には不思議な体験がある。

これまた幼年時代の話しになるが、僕は家族で車で出掛ける時に、カセットテープから流れる音楽を、大きな声で一人で大合唱、つまり歌っていた。当時、サザンオールスターズとんねるず、ドリカムなどが頻繁に流れていたと思う。歌うのが大好きだった僕は、とにかく歌った。家族は僕が歌うと大体幸せそうにしていたように思う。それはもしかすると僕の勘違いだったかもしれないが、、。とにかく僕はある状況下になると、途端にうるさかったらしい。音楽がかかると止まらない衝動によって歌いだす。ついに、家族からやめなさい!とストップがかかったときだった。その時に流れていた曲は、ドリカムだったと覚えている。何の曲かも覚えているのだけど、今ははっきり思い出せない。その曲がかかっている時に、真夜中で蛍光灯で白光したガソリンスタンドを通り過ぎた。僕は涙眼になっていたのか、視界がぼやけていて、その白光りしたガソリンスタンドが涙を通って乱反射して眼に映った。たったそれだけのことだったのだけど、不思議である。僕はドリカムの例の曲を聴くと、かならずあのガソリンスタンドが出てくる。白光りしたガソリンスタンド。ガソリンスタンドの白い蛍光灯が乱反射しすぎて、まわりの景色は緑色っぽくなっている。道路も弱い緑色のライトによって照らされた感じで不気味に映ってくる。これは、音楽と景色が何らかの条件によって連携して記憶に残った例である。僕はこの光景と、音楽を思い出すたびに、えもいわれぬ感じたことがない懐かしい気分に浸ってしまうのだ。これは言語化できない感覚である。事の顛末を伝える事はできるのだけれど、感覚までを言葉で表す事が出来ない。もしかしたらこれは、僕だけが無意識にだが、現実からの脱線によって作り上げた唯一の空間であると言えるかもしれない。

しかし不思議であるのは、このような体験を実は多くの人々が経験しているのではないか?というどこからきたのかも知れない、僕の疑問であるのだった。

つまり、現実の脱線という、いわば現実社会からすれば事故のようなことが、人々の無意識の中で突然とポツポツと巻き起こっているのではないか、ということである。このことは坂口さんの現実脱出論を読んで、僕と同じような体験や思考をしている人が少なからず一人、本を書いていたことから、ちゃんとした疑問として提唱できるのかもしれないと思った次第だ。

 

現実という僕たちをコントロールする為の常識のような画一化されたレールの上では僕たちはスムーズに日常を走ってゆけるのかもしれない。しかし、個人個人が感じていた、子どもの頃のような純粋な問いは、かたく閉ざされた扉の内に未だに残っており、いつかきっと解るだろうと、答えが出るのを待っているうちに完全に忘れ去ってしまっているのかもしれない。

実は自分の夢を追う為の一つの疑問である大事な問いがそういう状態になっているのだとしても、いつまでも気付けずに過ごしてしまう事の恐ろしさを僕は感じている。

 

例えば、僕は今日こんなことをTwitterで書いた。

僕は美術家の奈良美智さんに非常にシンパシーを感じるのだけども、奈良さんに対して吉本ばななさんがよくメッセージを残している。そのメッセージをみて、僕はまるで吉本ばななさんが僕に対してメッセージを残したのではないか!?と思う程に強烈な衝撃が走った。これは要するに、奈良美智さんという人物が僕という人物と間接的に繋がっているとは考えられないだろうか?という一つの疑問を僕に投げかけてきた!のではないか?と僕は真剣に捉えている。

僕は吉本ばななさんのそのメッセージを必要だと感じ、図書館で手記していた。

「奈良君へ」の部分を「◯◯くんへ」に変換して。笑

 

もうこれは運命としか言いようがない衝撃が走ったのだった。

 

しかしこれを現実で言ったとして、誰に通じるだろうか。解る人には解るかもしれない。

とてつもないリテラシーを持った人にならわかるかもしれない。

 

しかし、ほとんどの人間にこれが通じるようには思えない。

そういうことなのである。

現実からの脱線はいつ起こるのか予想がつかない。しかし、自分の特別な何かをちゃんと察知して認めてあげてさえすれば、それは大体において生活していたら、頻繁に起こりうる現象であると思うのだ。

 

そこから興味や関心が飛躍して、とんでもない発見をする可能性だってあるし、もっとより自分を知る事になるキッカケを得る事だってあるかもしれない。

だから僕は、現実とは別に、"自分の特別"を持つことがまったく、悪い事だとは思えないのである。