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僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

現実脱出論評

第一章;現実さんとの出会い

 

現実を見ろ、現実に生きなさい、現実的に考えてみて、、、現実・・・・。

 

「現実ってなに?」

 

そういえば、僕は親にこのようなことを聞いた事が過去一度もない。現実に寄り添ってというか、たまに体をチクッと刺されるような、どこか異質てきなものを感じながらも、そのもっとも"人々が現実的である"と呼んでいる生活にひれ伏されつつ、今まで29年間生きてきたと思う。

例えば、それは朝の7時には起きて、朝ご飯を食べ、そして歯を磨き、8時には家を出て、学校へ行く、というものだったと思う。僕はたまに学校へ行きたくない、幼稚園を休みたい、と現実を拒否していた事があった。しかし母親はそんなことは許されないことなんだ!とだけ言って、僕を休ませてはくれなかった。僕は実はそのとき、休んでやりたいことがあったわけではないし、べつに幼稚園や小学校でいじめられていたわけではない。どうにかして、現実での見えない掟のような決まりきった循環を打ち破りたいと、心根から自然と出た言動だったのだと思う。つまり、僕が最初に現実さんに出会ったのは、小さい頃に初めて登校拒否をしたその瞬間だったのではないか、と思っている。

 

ここでは著書:「現実脱出論」の批評、"現実脱出論評"として、著者坂口恭平さんの現実脱出論を元に、僕なりの現実脱出論を考察してみたいと思う。

 

まず現実脱出論では、現実とはどのようなものなのか、坂口さんが感じた体験の話しが現実だとたくさんの人が"理解していると思われている"常識に切れ込みを入れる。

例えばこの文章である。

"僕の体は一つであると思いながら、頭を掻くと、髪の毛が何本もおちますし、爪は切っても切っても伸びてきます。ー略ー毎日、少しずつ変化し、時には全く別人かと思えるような「こころ」とも出会ったことがあります。"

この後にも、定規で引いた線が、完全なまっすぐではなくて、微妙な凹凸によって、歪んで見える事など、完全な直線など存在しないのではないか?といった一つの疑問を投げかけている。

僕たちが何気なく使っている言葉が含む、イメージだけで構成される曖昧な理解が、本当に正しいのかどうかを、実際に体感した経験の中から、坂口さんは自らの現実に対しての疑問を語っている。

僕たちは普段、現実に照らし合わせたイメージで暮らしすぎている。そのイメージとは非常に抽象的で、良く言えば"伝わり易く伝達に長けている"が、悪く言えば、"非常に脆く、不確かな情報"であると言える。

例えば、"雨"と聞くと、空の雲から降ってきて、肌に当たると冷たくて、主に僕たちの飲み水となる資源であり、畑を潤す天の恵みである、と想像する事が出来る。しかしこれは表側の"雨"という単語に対するイメージであり、あくまで一部分であることを知らなければならない。では、実際に雨とはどのようなものなのであろうか?

"雨"とは、恐怖の側面を持ち、人類の化学の発達や火山の影響などにより、車や工場からでる排気ガス、火山灰によって、雨は酸性雨となり、銅像を溶かすなど、非常に有毒性をもつ場合も考えられる。

これは現実的さんが唱える"雨"というキーワードを、さらに深く追求したイメージの"雨"であることが言えると思う。このことから、現実さんが唱える一つの、たくさんの人々が信じて止まない共有空間とは別に、もう一つの別個の見方。つまり捉え方がまるで反転する空間が存在する事に気付くと思われる。

 

僕たちが普段生きている時間の中で、圧倒的に一緒に過ごしている現実さんとは他に、もう一つの現実さん以外の僕たちにしか解らない、謎の友達が僕たちには存在している事がないだろうか。

つまり、、それは現実さんが操る一つの時空間から外れた、もう一つ、いや複数の、独自の空間が存在しないだろうか?という僕自身の疑問でもある。そして、僕は冒頭で告げた幼少期の頃、それに気付き、確かに感じとっていると言う事でもある。

 

現実さんと出会う事は、他の現実さん以外の何者かに、出会う事にも繋がっているはずなのである。