趣味の世界

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2015.5/17

日曜日。起床朝4時40分。交通量調査のアルバイト。繁華街へ放り出される運命。そしてそれが仕事である。たくさんの人たちが、車達が街を行き交い、右往左往、前から後ろから、それらは僕をジィっと見やってくる。僕はすでに立つ瀬がないと思い込んでいる。バイトの仲間が訪ねてきた。例えば年齢を、何かしているんですか?、と。世間一般でいう、あれこれの法則や、規則、それらが裏付けられた歴史、などを考えてみても、僕は明らかに社会よりも説得力が無い、ただの人であり、それ以下でもあるように思われた。

無限の網、草間彌生さんの自伝書をさっそく読み始めて思うことが一つある。僕は人間の欲望、食の欲、性の欲、金の欲などが穢らわしいと思っていた。というか、そういうように刷り込まれていた、親から。そして、僕はそれを信じていた。いまでも信じているので、それらの欲望は穢らわしいと感じている。しかもそれはいたって純粋に思うところなのである。さきほど、親から刷り込まれたといったが、それは単なるキッカケに過ぎず、僕は本当にそれらの欲望を穢らわしいと思っていると思う。

草間さんは総てを手に入れたいと自伝に書いている。のしあがりたい。まるで矢沢永吉である。貧しい生まれではない草間さんは、純粋な欲望を持って生まれた。欲望があるかないか、で正しい、間違っている、などというようなつもりは毛頭ない。ただ、僕もそういった欲望を持って生まれたかった、、、と思うことがある、というわけで。徹底的な草間さんと僕との違いは、それであった。欲望の捉え方そのものがまるで違っていた。彼女は、男を黒人白人イエローモンキー、関わらずとっかえひっかえして、あそびまくりたい、そして危険とわかりながらも真っ赤なスポーツカーでもあったら、強烈なスピードでもって、すっ飛ばしてやりたい、手の切れるようなドル紙幣もって、テキサスの大草原でもドカンと買い占めたい、、と、、彼女の欲はまことに壮大である。僕はまるで、自作した小屋のひとつでもあれば良いと思っている。そしてその小屋をドンドン改築していって、居心地の良い自分の住処、居場所にできたら生きている心地がどんなにするだろうか、、と考えたりしている。まるで趣向が違う。僕は僕の為に絵を描いていることがわかる。僕は絵でなにかを訴えたいわけではない。絵によって、すこしでも自分の寂しさを紛らわせたり、自分に生きている心地を感じさせる為の手段としての絵であると思っている。それをたまに人におすそわけできたらいいなと思っている。

 

基本的には自分の内面から勝手に生み出たような代物である行動が、絵であったというしかない。

 

僕は独ぼっちだな、と街をあるくがやがやしたたくさんの人通りの、若いカップルや家族連れ、僕と何気に存在的なものでいえば近いおじいちゃん、おばあちゃんたちの喧騒の中で心底感じる事が出来る。毎回毎回、同じ感覚。そして泣きそうになる。嫌になる。消えたくなる、死にたくなる。死にたい歌をさっそく作って、今日歌って帰ってきてしまった。自然と言葉にでる死にたいは、旋律がめちゃくちゃで、メロディなんかなくて、ただのか細い悲鳴であるように思われた。べつになんだっていいのだが、どうせ隅の溝にあたまから突っ込む覚悟の欠片も持ち得ていないのだから。そんなことでは死ねるはずが無いという直感だけは確かに在った。つまり、事前の未遂って表現でいいのかな。くだらないのだ、とにかく。それで、逆によかったかもしれない。本気の本気で死にたいなんてなったら、きっと真っ先に確実に死ねる方法で、確実に死ぬだろう。わからない、、、躊躇するとおもう、きっと。でも、なんで死にたいなんて思うかといえば、自分がどうしようもない感覚がつねにつきまとうからで、足の脚力だって、周りのバイトさんとくらべて、僕はさっそくガタがきているし、どうしてこんなにちがうのだろうか、いつからこんなにちがうのだろうか、と感じてしまっていて、どうしようもない。鍛えろ!と言われたらどうしようもない。たしかに、そうだし。

 

なにをどうやっても、感情がこうなびくことはわかっているし、ついここさいきんの話しではなくて、結構付き合いの長い不安感さんなのである。ここ最近一気にそれが増したのは年齢のせいでもあるだろうし、年齢における世間一般の、いや、社会特有の人生設計の流れてきな、それ以前に、人としての自立と、収入源の確保のこととか、具体的なことに打ちのめされた感じである。どんだけ馬鹿なんだ、おれは。

 

僕は頭をつかってないのだろうか。自分を転がす為の路を造れるようになりたい。