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僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

2015.5/11

起床、朝11時。起きられなかった。アラームを9時に起きるようになんども9時前に設定していたにも関わらず、アラームを押しては鳴り止ませ寝過ごした。昼の12時半から病院だったので、寝て起きて早急に着替え、父親が持って帰ってきてくれた弁当を食べて、外に出る。ああ、実家の恩恵に与りまくっている生活がここ数年続いている。甘ったるいかもしれない、しかしこのくらいが自分にはいいのかもしれない。仮に、自分が飯をつくるようになったとして、まあ、料理は上手になるだろうし、賢くなるだろうけど、、。成長を自ら妨げる環境にいるのかもしれないし、それの何が有り難いのかは考えれば考える程わからなくなる。僕が有り難いと思うのは、父親の会社で作っている弁当が美味いことに関しての方向で有り難いと思ってるのかもしれない。

ほとんど出来合いで2割くらい自社でつくってるんだろうけど、組み合わせが絶妙なのか、毎日食べて飽きない。もちろん、日替わりの弁当で、毎日のようにメニューは変わる。これも凄い。父親は弁当を作るというか、献立を作るのが仕事みたいなもので、メニューをすべて自分で決めている。一つの弁当がいくらで作れるのか、個々の商品の値段をみたり、盛りつけと、味のバランス(酢の物、揚げ物、魚、肉、野菜など)をよく考えて作ってるなと思う。もう味に慣れてしまっているとはいえ、飽きないから良い。はっきりいって、毎日コンビニで同じように並ぶ弁当を自分で選んで買うより、よっぽど良い。

メニューのバランスがいいのか、本当に飽きない。おんなじ弁当を僕は一日で二食たべることがある。たくさん持ち帰ったときは、一日で三食同じものをたべることもある。よくわからないが、この弁当が奏でる味のハーモニーが心地いいといえばいいのだろうか。。飽きないすごさを身近で感じている。とにかく感謝だ。もう、父は父でバリバリ自分の使命を果たしている人間であろう。すごいな。

 

僕はどうしてもまだまだ子どもである。それが悔しい。しかしどうして良いかもわからないというグズっぷりである。。とにかく自分が動きたい方向へ少しでも諦めずに自信もってやってくしかない。そういう風にしか今は思えない。

最近はたくさんのことに興味が湧いてきている。身近に気がつかなかった色んな物があることに気付けているような気分で、機嫌がいい。たとえば、どういう仕組みで動いているのかわからないものがたくさん周りにはある。それらの動く仕組みをしりたいなと思ったりする事が出来る。これは大きな進歩だと思う。ある程度頭の中で想像出来るものはたくさんあるけど。クーラーがなぜ冷たい風を送る事ができるのか、おれはよくわからないでいる。室外機が逆扇風機みたいな役割を果たしている。何故なのか?室内の空気を喚起しているのだろうか?全くよくわからないでいる。

クーラーをつけると、いつも氷を連想してしまうけど、それはとってもお馬鹿さんな想像なのだろうか、、とか。少し自分でクーラーの仕組みを考えたりするのが毎年夏の年課だったりする。

 

病院へ。二ヶ月ぶりの病院はまったく雰囲気が相変わらずであった。待ち時間、いつも紫のコールマンの貰い物のバッグの中に入れてる松浦弥太郎自己啓発本を開く。僕はいつもこの手の自己啓発本を読むと、僕の周りの友達を連想してしまう。あの人はこれが出来ている、すごいなあ〜、、という風に。それが好きな人だったりして、余計に尊敬してしまう。すごく素晴らしい人を好きになれたんだ!自分は!と一人で興奮してしまう。そして自分は出来てないな〜と反省し、なんだか落ち込んでしまう事もある。

この著書の中にでてきた、僕は毎朝ハンドクリーム塗ります、宣言だけは僕でも出来るし、実際に今実践している。逆剥けが多くて苦労してたので、毎年冬には必ずハンドクリームは塗っていたのだが、毎日塗るようにした。手は自分を映すと思う。

今日、工事現場で汗を流す兄ちゃんがいたが、その人は大きなレンガを使えるようのサイズに裁断する作業をしていた。それの何が異様だったかというと、彼は素手でそれを行っていた。そんなことをすれば手の表面が痛むだろう、、と思った。それを見ながら、手は人の人生を物語る、、ことについて考えていた。その兄ちゃんはおそらく手の皮が人のそれより大分分厚く変化していることだろう。だから、素手でレンガを何度も持ち上げる事ができるのだろう。もちろん、そうする必要がまるで無いだろうと思われるのに、だ。

柔道をしている人の手をみせてもらったことがある。僕より一回り大きな手だった。僕より身長が低いその人が。。人と取っ組み合いを何百、何千とし、投げられ、投げてきたことで、手はその状況へ応じるように変化していったのだろう。きっと、手には感情があり、そして、何かを常に感じとっているように思われてならない。手は第二の顔であると思っている。僕の人生からではあまりゴツい手にはなりそうも無い。僕はハンドクリームを塗って、絵を描く用の手、いつでも見せられるようの作品の手として保てるように整えておこうと思っている。

 

日中、潰れたと思っていたあんぱん堂を発見し、あんぱんを買う。ただ移転してただけみたいだ。100円で1つ。高いかもしれない、、と少しだけ思った。菓子パンであれば、5つ入っているものがあるから。腹は後者がふくれるが、味はやはりあんぱん堂のあんぱんが美味い。一番うまいあんぱんが食べたい。こしあんが好きだ。あんぱんはやはり球面のてっぺんにゴマがふってあるのがいい。大きなあんぱんが良いかもしれない。パン屋巡らないといけないな。。いちばん美味いあんぱんを探す!

 

午後、街を描く。今日は丁度椅子がある場所で描けた。良い家だった。民家を描いているので、そこに住んでいる人によく見られる。でも相手はあんまり関心がないのか、無視してくれる。ありがたい・・・。僕は興味を惹かれる方が怖い。何をしているの?と絵をみられることに抵抗がある。声をかけられること自体に抵抗がある。僕は一人でただ絵を描いているだけだから。それ以上のことでは全くないのだ。通行人も物珍しそうにチラとこちらをみるけど、大体無視してくれる。有り難いです。

 

全く大したことのない絵を描いているような、そうでもないような。。自分では価値がわからないでいる。迷いがあるのか。。どうか。しばらく時間が経たなければいつもわからない。直感で描いてて、それがどんだけ自分に響いてくるのかが今のところわかっていない。ただ、なんとなく好みだな、、と思う。

 

でも、そんなことの繰り返しでしか絵は描けない。自分の場合の話しだけど。矢沢永吉さんやGacktさんのように自分に絶対の自信があるような曲、スタイルを持てている訳ではない。どこかで迷いがあるし、他人の全く違うような作品に戸惑いをおぼえ、必死に自分のそれとは全く違う作品を見比べたりしてしまう。それになんの意味も無いとしても。愚かだなとは思うのだが、そうせずにはいられないほどに不安でいる。

 

一日とは長いもので、マジメに文章にしたためていると、すぐに原稿用紙10枚ほど書けてしまう。これは書かないか、書くか、だけの問題で、あとは気持ちの問題であろう、と思っている。一日、毎日同じところを通り、同じ場所へ向かい、同じ作業をしていたとしても、昨日や一昨日とはところどころ違い、いや、総てが違い、今という日と書いて、今日があることを思い知る。Gacktの家は真っ暗で光を遮断し、家の中を闇で覆っているような演出にしている、、と自著の自白で語っている。居心地の悪い空間を自ら演出している。家では集中出来る環境が欲しい。家は居心地が最高に悪いから、外に出たいと思える。外に出て、公園のベンチが一番落ちつく、らしい。外にはたくさんの刺激があり、外がいちばん色んな物が学べる場所だから、出来る限り外にいることが心地いいと思うように仕向けているらしい。

そこまでやるとは、、という感じであるが、確かに家は僕にとって居心地が良いものだし、いつまでいたって、なんにもすり減らない。すり減ることがないから安心できるから、家の中でのオナニーなんてのは最高に居心地のいい瞬間だったりするだろう。これをきいて吐き気を催すような人がいるかもしれない。

 

しかし、そういった生温さが心地いいのは当たり前の事だと思う。たくさんの刺激を心地いいと感じる人には理解しがたいとおもうけど。今僕は外に積極的に出ようとしている。すこし無理を強いている。むしろ、過去からいえば、出過ぎである。明日も早朝に起きる訓練として、ショートケアの体験版を経験するため病院へ行く予定である。

たくさん人がいる場所へいくので、少し不安があるが。。

変に見られないだろうか、とか、お前はなんでここに来てるんだ?とか、、。

一見なんの変哲も無い、ただの怠けで病院に通っている中年男、とかおもわれないだろうか、、とか。

そうじゃない、と僕は言いたいが、おそらくそれは伝わらないだろう。

それを伝えるにはどうしたらいいのだろう、、と考えるけど、言葉で伝える事に危険性がありすぎることなので、言葉のニュアンスでは伝わりきらない(誤解や齟齬が生じる可能性)と思う。

 

伝えたい、と思った事さえ実は無いのだが。

自分がわかってる、それだけでいいのだ、、とは言い難いが、自分がわかってる感覚が正しく合ってるのかすらも実はわからない。でも信じられるのはその自分が背負った感覚しか無い、、というような残酷さである。

僕がただしいのか、それとも周りがただしいのか、それをじっくり吟味している間には歳をとって、何事も遅れてしまう。きっと自分が感じとっていることを僕は僕として無碍にしたくない。だから、それを表現しようと藝術に走ったところがある。それとしてしか表現しえなかった、弱さがあるのかもしれない。

 

今もそうであるが、基本的には僕は今も弱いままである。これからも、たぶん弱い。強さというもの、弱さというもの、それらはどうやら性質であるらしい。これからそれらが入れ替わるような事があれば、それは嘘つきになるのではないかと、思う。

 

弱いからこそ、魅力的なところ、出来る事があると思う。それは周りを見てて思う。可能性があることがわかる。自分なりの可能性を開花させてやることが僕なりの弱さと向き合う方法である気がしている。