趣味の世界

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2015 4/9

起床朝5時。労働の日。適当にメシ作って、弁当こしらえる。労働の日の日課。眠い、背中痛い。骨が軋む。そんな朝。そして寒波。寒い・・。

 

電車の中で借りた詩集を読む。北村太郎の現代詩集。読んでいるときはなんども、最後までよんだらまた最初からそのセンテンスを繰り返し読んでいく。なんどもなんども、じっくりと腑に落ちるまで。僕の詩の読み方だ。極端に眠くなる。すごく集中力を使う。"読む"ではなく、"感じ"とらなければならないと思っている。というか、そこに手を届かせたいような気持ちがある。解る、とかではなく、ただ届かせたい。何かを得たい。その為に必死である。

すると、今電車に乗って現場へ向かって揺られている現在から、存在を引き剥がしたところへ僕は存在するようになる。北村太郎さんの詩集はもしかしたら誰々サンのオマージュではないか、と感じる事がある。いや、実際そうだと思うのだが、それが僕には感覚としてよく伝わってくる。しかし、全くと言って良いほど作品の色は至極本人である。その不思議はどの詩においても、組み立てられた空間が真実の現実を象る深淵の谷、空間を満たす夜空と少しの星の度合いがほぼ全くと言って良いほど変わらないことが明らかにしているといえるだろう。北村太郎の詩は夜である。夜と闇は違うが、夜闇とでもいえばいいのか、どこか混合している。配分は様々だ。安定しない。しかし、仄暗い。終始。たまに点々の黄色が浮かぶ。それが星に見えることもある。夢を追っている。夢とは何か、ここでいう夢とはおそらく眠りを誘因とするソレである。おそらくこの北村太郎。夢を追い求めた詩人ではなかろうか。そうだとすると、僕の都合がいい。それにおそろしく現実から分離させんとす詩のチカラは強引というか、誘発である。これは夢の導入に似ている。夢とは見ようと思ってみるものではない。見ようと思わずともみてしまうものが夢だ、と個人的には感じとっている。(もし違うという意見あったら教えてね。)北村太郎は寝る事が好きな人だったのでは無いだろうか。ここは完全な憶測である。睡眠が好きな人は夢を追い易い。易いのだ。簡単に追えるということでもある。自然と追うということでもある。夢をみたであろう。しかしその夢とは真に現実であったろう。誰々が死に、我は悲しみに堪える事が出来ず、泣こうとするが、泣くに泣けず、酒を飲む。壁には我の影がうつる。その影こそが我の真実の姿なり。

真(makoto)の現実とは、夢の世界への導入である。現実とは、孤独である。孤独は夢を見る。つまり、孤独は夢を生む。夢は詩になる、圧倒的な現実を書く為の。

 

僕は北村太郎の詩をよんで、爆走したくなる。とくに柔らかな泥の上を駆けていく。そこでは草の緑のがちらほら生えている。、、間違えた、すでに爆走していたということが真実に近い。

自らの足がか細いものであろうと、その力強さはそのか細さに劣らずしっかり、どしっと地面を踏みつける。足裏を痛めないように、全力を尽くせるように泥が協力してくれる。夢ならではのソレ。全力をだすには石ころが転がっていてはまともに走れない。そのことも北村太郎は考慮した。

まだ前半しか読めていない。全体の5分の1くらいだ。でもここまで感じとる事が出来る。じっくりと読みたい。本当にいい一冊、とてもすばらしい本を紹介してくれた左膳さんに感謝。そして彼女のセンスに素敵なキスを送りたい。(イメージとしては手の甲あたりで。)

 

なんて、ちょっと洒落た事いってみたような気がするが、、、素直な気持ちです。

おれなんかのキスに価値があるなどとは到底思えないが!

 

今日は労働で少し疲れた。

寝た方がよろし!とのことです。

ではノ