趣味の世界

興味のある事

風があったけえ・・・。

もうおれは日中ジャンパー着ない。

 

2015.3.31火曜日 起床朝10時。ヒゲが伸びてきたことを確認する。まだ剃るのは面倒であるので、剃らず。ニキビもまだ完治していないので、ヒゲ触らず。顔を洗い、歯を磨く。朝。晴れている。明日からは曇るらしい。桜が今週で散るという事はないよなぁ・・・・?という無知の不安がつきまとう。しかし、そういうことを調べようとはしない。とくに興味の無い話題なのかもしれない。せめて今週は咲いていて欲しいということだ。桜の事情もあろう。おれの事情もあろう。みんな事情だらけである。そんな朝。。

パソコンを起動する。Twitterがすごい。もう完全に僕の日常にTwitterの起動が取り込まれている。Twitterという概念を重用視したことがなかった。Twitterを利用している人間が重要だとおもったことは限りなくあるが、、。Twitterが無ければ、利用する人間も居ないわけなのだから、Twitterの存在は最重要であるはずであった。しかし・・・。とエンドレスコード。果てのないオウム返し。

爪が伸びた事を週末にふと気付くのは、暇のないほどに何かに囚われ忙しかった証拠、とともになにげなく気付いていたが見逃していた己の怠慢。理屈や理論を追い求め、最初の山は簡単に超えてった楽しい想い出。いづれ行き詰る最終的な答案は"点"のようなものであった。徒労をくりかえし進化する人間の世界。ノーベル賞。そこまでの追求を強いられた、または強いることのできる生命体。

 

明らかにぼんやりしたものが多すぎて、人間の眼が捉えきれているのは、ただの一点。常にある集中を課せられた、(それとも?集中する事の出来る可能性を与えられた)身体能力。それなのに無限に広がる空間を感じているこの感覚はなんなのだろうか。無駄に覚えられない初めての光景。その印象は掴む事は半分くらいなら叶う、という。行きは漠然としているが、帰りの道がわからない赤ん坊。

 

人間の眼は焦点が一点に集められ、タダの点しか網膜に映像が投影されない。つまり点しか映像としての情報の詳細を把握出来ていないわけである。他はすべてぼやけて見える。色の認識が出来るような、できないような。焦点から周囲二十センチくらいであれば色が判別出来る気がする。しかしほぼ黒く見えているような気がする。そのぼやけている部分を含めて、僕が憧れた風景の印象をスケッチしようとしている。一点しかみつめることのできない人間が、なぜ場所や人の印象を克明に感じとる事が出来るのだろうか、ということを考えてみる。すると、おそらくそれは無から有はありえないという定義に等しく、経験と体験に基づいた今までの自己の歴史を省みることから生じる実感なのではないか、、と今は根拠づけておく。根拠をつけることに意味は無いのだが、こうすることで、とりあえずは前に進める事が出来る。地道な一歩・・。

絵の描き方もかんがえなければならない。そこの風景を描くのに一番ふさわしい描き方をしなければならない。錯覚というものについての研究に僕は走っている。絵を通して、明らかに。。僕の興味は錯覚がどのようなものなのか、、ということであるような気がする。それは不確かであり、確かなものである気がする。錯覚の確かさは己の身体を震わせるほどに実感を与え、不確かさは頭の表面に何者かがひっかかる感覚を覚えるが、すぐに忘却できるレベルにとどまっている気がする。とにかく僕は錯覚だらけの中で生きている気がするのだ。それは別に追い求める必要があるモノではないかもしれない。他人にとってはどうでも良いテーマであるし、くだらない一つの感覚でしかないのかもしれない。しかし、僕にとって無視出来ないことなのかもしれない、、とここ最近考えている。錯覚を自分なりの方法でひも解くこと、きこえない、みえないものを感じとれるということ。言葉にならない感覚をおぼえるということ。どんどん空想の世界へ入っていくかもしれないが、それを提示しているのは人間であるし、僕らが住んでいる街、町である。大地とその場所を織りなす歴史と、現在生きている動物が建てる空間とは。。

または、生き物とは・・。

 

それを感じとることのできる自分とは。

 

世界への旅を自身が足をつけて生きているこの地と人とを介して、共通し共振するものを掴めたらと思う。