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僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

時は遅く、のろく過ぎ行き、我がままに僕はいきている。

とても真面目に生きている、つもりである。

 

2015.3.21 土曜日 午後2時30分頃起床。遅い。一時、6時45分に目を覚ます。二度寝。いつも通りか。今日もドラマは起こせそうにない。いつも通りの体内時計。ドラマメイカーの夢の時計はリセットされた。明日は髪を切りにいこう。社会の存在を確認しながら、我を調律していきていくのには疲れる。なんてことを、幼少時代に思ったかといえば、そんなことは微塵にも思わなかった。いまなぜかそんなことを考えてしまう。さあ、現実を見よう。現実はなんて愉快な空の下の世界なんだろうか。リアリティに欠ける。だめです、それじゃないです。そうじゃない。惨め。

 

どんどん感化されてゆく僕のインスピレーションはとどまることを知らず、影響をうけつづけ宿命であるはずの老化の一途をも蹴りあげて進んでゆく。どこまでゆけば気がすむのであろうか、僕はその詳細をしらない。知らないことは怖いことだ、と言ったのはだれだったか。しかし、この場合であれば、知ることの方が怖くなってきた年頃でもある。引きこもっているとこのような文章しか生み出せない。土を踏まず、草にも触れない。空の様子は想像の中ときた。これでは立派に文章も書けない。しかし、人間には経験と体験によって、知識が蓄積されているはずである、と告げるのは僕の二人目の影。しかし、それは理屈だ。理屈はこの際通用しない。鮮度の問題である。鮮度に優るインスピレーションには何者も敵わない。"素敵"という言葉の漢字の由来を調査した。すると、素敵とは、「何者も敵わないくらいに素晴らしい様である」ということから付けられた当て字らしいことが判明した。以前からこの単語に使われている"敵"という漢字が気になっていたのだ。敵という単語の意味合いは素敵というワードからまさに、外れている感じを受ける。褒め言葉であるから、もっと適した字があるのではないかと思ったのだ。素的とか、素笛

とか。。音楽的でいいじゃないか、とか。

何を描きたいのか解らなくなっている。というか、描きやすい絵がわからない。そういう時はとにかく何でも良いから描き始めろ!と僕は僕へ言う。そうしないと、ずっとなにもしないまま時は流れてゆく。とてもゆっくりなようで、午後11時くらいからは突然猛ダッシュで時間はにげてゆく。ホラ、すぐに夜中の2時だ。こういうことになってしまうのが僕はとても嫌だ。もっと色んなものがみたい。もっといろんなものを描きたい。色んなものをみて、写真とって、インスピレーション感じたらスケッチする。それを繰り返してゆく。その中で発見をまとめてゆく。そして絵に昇華する。文章にでもいい。音楽は最近まったく作ってないけど、作りたい時はたまに来ている。作ってないけど。だからそれでもいい。とにかく、何がしたいのか、、を考えなければ。。何に向かっているんだろう、自分は。僕にもまったく解っていない。しかし、良いと感じたものの中に必ず自分が求めている何かがある。解りかけている。すでに。時代の進行によって塗り重ねられるレイヤーは後ろの時代をも無駄にせず、進む業を知っている。その時代の統合の瞬間と過程の感じに似ている。しかしそれは一個人の人生のある瞬間ともリンクする。過去の自分への別れを告げ、新しく恐ろしいよくわからないものへと挑む瞬間、その変遷の過程に魅力を感じている。その瞬間こそ、人間が、物事が、自然がぶれる瞬間である。そのブレを表現したい。そのブレはとてもフレッシュであり、憎悪であり、活気であり、野望であり、希望であり、堕落であり、つまるところ未知である。もっとも生命が揺れ、目を覚まし、恐れる瞬間である。

それがどんな絵であるのか、わからない。僕の目指している方向が、まったくそれとは逆へ進もうとしていることも確かである。。とにかく少女病棟展で描いた絵や、それを展示した流れを殺したくない。それ一心でやっている。殺すのは簡単である。辞めれば良いのだから。しかし僕はやめることすらできない。辞めて何をすればいいのかわからないし、やめたら体調は悪くなるだろう。気が狂うと思う。どんどんなにかに集中していかなければ僕はいきてすらゆけない。依存しているのかもしれない。しかしその依存の杖がなければ僕は死んでしまう。歩けなくなってしまう。どんな環境下であろうが、自分の精神をささえるのが今の創作の方法なのだろう。僕自身はまったくそれを嘆かないし、虚しいとおもうことすらないが、世間的にみたらとても冷遇される話しだろうし、僕は本当にただの廃人であるだろう。震災のことだって、まったくよく知らないし、勉強もしない。少し考えたら、次の興味や関心に走っている。まったく他人に時間を使わない。つかうとしてもまったく別の他人のことを考えている。創造力の欠如かもしれない。あるいは病気かも。。

しかしネガティブになってきている。陽光の下、口の中をアイスの棒が廻りながら、首の長い緑の草の中、靴底を跳ね返してくる土の上を歩いている様子など、思い浮かべることはできない。もともとそういう風の元に今いない。人と喋りたい。もっと人に優しくしたい。想像では、頭の中では上手く振る舞えているのに、実際はこうだ。まったくおぼつかない足取りの稚魚。稚魚は歩かないって?だから、可笑しいんじゃないか。僕はそれほどまでに閉ざしたのか。笑えよ通行人。笑えよ待ち人。せめて、少し笑って欲しい。馬鹿にしてくれ。それなら少しは僕も救われる。