趣味の世界

興味のある事

Chance Chance Chance....We are a Chance maiking in a everyday!!

生きていることがチャンスである。生まれたことがチャンスである。毎日目が覚めることが最大のチャンスである。

 

2015.3.17 起床午後3時30分。病院へは行かず。いちど7時30分に目を覚ますが、眠たかったので、寝た。わたしは昨日、自分の部屋に貼付けた一枚の絵が気にかかり、ずっと眺めていた。その絵は試作として書き上げたらくがきの類いのものなのだが、ものすごいヒントがあるような気がして部屋に貼付けていた。どういう絵かといえば、なんてことはない、誰でも描ける一枚の絵だ。4Bの鉛筆一本用意してもらって、B5サイズの用紙に、自分の気持ちのよい、きりのよい長さの縦線を画面一杯に描くだけである。その鉛筆で書かれた短長バラバラの縦線を眺めた。一息で10数本くらいの線を引いている。一息、一息、描かれている線の濃度が変わっている。薄い十数本の束もあれば、比較的濃い目の十数本の束もある。これらを見比べていると、それぞれがそれぞれの色に見えてくる。赤色、、薄い黄色、、水色、、それらが水中で暮らし光をうけて輝く魚の鱗に見えて来た。これかもしれない。これかもしれない!!なんだか大きな発見をした気がする夜中であった。ゴッホが見つけた光と風の流れから生まれるあの流れるような色の羅列と似たような発見をした気がする。色の羅列を黒の一色が織りなす濃淡から見いだせる気はなんとなくしていた。だからデッサンがあるわけだ。アップルをかかせたら、それが何色に見えるのか、人間は赤色だという。しかし実際に描かれているのは黒い濃淡で表現されたものでしかない。実質的な色はただの黒だ。それが赤色だと口言できるのは、おそらくそれがリンゴ、アップルだと頭で認識したからだ。僕は十数本が一束となった黒の濃淡が付けられたその一枚を魚の鱗のようだと感じた。それから色が見えた、、のかもしれないし、その前に感覚としていろを認識していたのかもしれない。魚の鱗のようであると気付いたのはずいぶん後になってからだった。それまではなんとなく色が見えてきていた。そして錯覚である顔ももちろん見えてきていた。一体これがなんなのかわからない。しかし僕はこの試作の一点は間違いなく藝術作品だと認識している。だれにでも描けるが、これほどまでに人の感性に揺さぶりをかけてくる画面は想像以上である。展示をするなら、まず飾る一枚になるだろう。色の概念を黒一色で表したいとおもっている。実は今僕がやろうとしていることはそれなのだ。笑 それも偶然おもいついたのであるが、とにかくクレヨンや絵の具を使わなくても良いということが絵の可能性を広げるとおもったのだ。鉛筆、ボールペン、マジック、液体のり、ボンド、そして貼付ける為の紙。これらをつかって色を表現できないだろうか!!?出来るのではないか、、いや、鉛筆一本ですら可能ではないか。ともおもえてきている。一作の試作から、僕はインスピレーションによる絵も試作としてつくっている。それは色を使っている。色をつかったが、色を使うことでどういった具体的なイメージができあがるのかを試してみていた。しかしやはり色を使うと自分の精神が単調になる。単調になるということは、腕の運動と頭の運動が簡潔な直接回路へと繋がれとどまること無く広がりを見せるということであるが、そちらの方が簡単である、、という一言に尽きる。簡単であるということは、いずれ終焉を迎える絵画技法であると僕は思う。簡単な方向へいくほどに絵画は終わりを迎えていく。自身がイメージしうる愉快な方向へシフトしていけばいくほどに、絶望をむかえるのではないだろうか。だからゴッホは自殺した。そうではなくて、もっと難しい方法へ、自己が迷路に迷い込む方向へシフトさせなければならない。出来ないことにぶつかり、しかしそこへの扉をとてもノックし、こじ開けたい欲望をもちつつ、挑戦していく。その姿勢さえあれば、無限大にチャンスは訪れる。生きていることがチャンスになる。生きているとチャンスが転がっている。それは自身に向けられているもので、他者に向けられているものではない。その転がっているゴミを拾うかどうかは、自分自身に全てが委ねられている。ゴミを拾いあげ、転用することへの価値はそれほどまでに重いのか?いや、軽い。だからこそ見えないチャンスであると言える。見え難いものこそ本物のチャンスであるように思えてきた。最近のことだ。あるいは、つい先ほどからのことかもしれない。僕らは生きている限り、チャンスを作り続けている。それは無意識に。そのチャンスを拾うかどうかはあなた次第だ。僕の知ったことではないし、あなたもそれはそれで知ったことではないかもしれない。しかし僕はその見え難いチャンスにものすごく愛おしさを感じている。僕だけはそれを信じたい。馬鹿にされると思う。一人でやってろという人が出てくると思う。ゴミを集める人とはちがう。それを転用しなければなんの意味も持たない。ゴミに見えないから、ゴミを拾うのだ。実はこの世に抗い、この世に意地でも生きてやる!!って人がいるけど、僕はそれはあまり美しくないと思っている。それはリアリティーがあるかどうか、僕にはわからない。その精神は別にいいけど、その奥に存在しているであろう本音をまき散らさなければ本当のリアリティーは出てこない。本音はどうなのだ!?という問いだ。全ての人が、とはいわないが、ほとんどの人は自分を押し殺し生きている。さもなくば、自分に納得して生きている。押し殺し、または納得し、生きていく方法はいささかまずい。常に問わねば、、。冒険は籠りながらにしてできる!!僕は思う。

いや、やはり放浪し、歩き、汽車に乗り、風景を見、あるいは夢を見、いきてゆくその生き様からうまれるものは確かにあるだろう。しかし僕はそれはリアルではないと思っている。リアルとは冒険からではなく、生活から生まれなければ、それは噓になる。普段の生活が自分にもたらしている影響を考えなければ全ては噓になる。だから、青い空の下で一週間、一ヶ月、息をしたからといって、十数年、屋内で息をしていた時間には敵わない。それに匹敵するという根拠があるのなら、それはすべてでまかせであるような気がしている。自らの生きて来た場所を否定してはならない。生きてきた場所はリアリティに包まれている。それはあなた自身だ。それが何の価値もないわけがないと、僕は思う。

 

価値があるものは、自らが拾い出さなければ価値は生まれない。

 大竹伸朗さんは、自らが作ってきた作品をすべて自分の手で保管した。そうしなければ自身が創作した絵たちは、母親に全て捨てられていたからだ。幼い頃、手塚プロダクションへ自らの足で通い、絵を書き、なんと、セル画をプレゼントとして貰っていたようなのであるが、それをある日見ようと探していたところ、見つからない。母親にきくと、捨てたよ、と言われたらしい。そこから火がつき、自分の作品は自分で守ることにしたらしい。心が暖まる。大竹さんのゴミを作品に変えていく姿勢、実はゴミはゴミではなく作品の一部として落ちているだけなのだが、その態度はこの頃から生じたものなのかもしれないと僕は勝手に妄想している。生きていると、勝手に自分の人生を他人によって左右されることがある。僕も何度もそんなことに出くわしているのであるが、その時の憤りやら怒りやらが、やっぱり最終的にリアリティを孕んだ形として自分の中に残っている気がする。後世に何かを残してやろう!とか驚かせてやろう!という気持ちは噓だ。そんな想いはくだらない。僕はそんなちんけなことは考えるべきではないと思っている。くそくらえ!!

 

そうではなく、もっと馬鹿げたことでもいい、子供が思いつくようなことでも、真剣に思えること、考えられる発想や、思考を大事にしなければ。高尚なことじゃない。偉人がすでに発見していることでもいいんだ。それでも自分が輝いていると判断し見つけたものなら、必死で磨き上げろよ!それが責任であり、仕事だろう!!

僕が上のようなことを思わなくなったらそれこそ廃人だ。いづれそのような時が来ようと僕は知ったことではないだろうが、まあ、もう既に廃人として存在している可能性はそうだね、高いかもしれない。

 

真顔で賞賛されるよりも、笑われた方が真実に近いよ。

 

ohh...this your life work!!? Unbelievable!  What's crazy!! HAHAHA....!!