趣味の世界

興味のある事

最近は雨が多い。

2015.3.16月曜日 起床午後4時過ぎ。二度寝。午前11時45分に一度目を覚ますも、過度な憂鬱さからまた寝てしまう。ただいま精神状態に憂さを孕んでいる。重苦しい倦怠感。早く体を動かして働きたい願望。その両方が対立し、僕はあたらしく絵の方向性を開拓したい、いつもの芸術家気取りのアレが顔をのぞかせる。僕は芸術家になりたいわけではない。ただ、夢中になって絵が描きたいだけなのだ、そう、ジャクソンポロック、ビィンセントファンゴッホ、ジャンミシェルバスキア、フランシスベイコン、ヘンリーダーカーのように。それで人生を終えたい。追求したいものがある。確実に藝術という創作過程のなかで追求してみたいものがある。確信がある。それを僕はすでに体験している。だからまだ諦めることが出来ていないし描き続けてきている。それがどこにあるのかはわかってはいない。だが、マンガ表現、絵画表現、アニメーション表現、音楽表現、文章表現のいずれかにそれをもっとも示すことの出来る兆候がみられるはずである。だからどれも辞めることは許されない。断続はあるが継続させなければならない。だれにも関係のないところで自分の創作は続けなくてはならない。それは個人的に希求しているものであり、他者に還元しているものではないから。いつもそんな結論に達してしまう。これは僕が弱いからだろうと思う。稼ぐのには度胸がいる。お金を求めるには視点をずらさなければならない。そのズレが非常に怖い。なぜなのかわからないが、そのズレの動作を働いたところで、いままで見ようとしていたものが崩れ去りそうなそんな気がする。しかしそれは気がするだけで、結局僕は囚われてしまっているので、いつまでたったって、そこから逃れることは出来ない。だから、結局戻ってきてしまう。そのように感じる。アニメーターを辞めてなおペンをとりつづける僕は家族に嫌な目でみられたが、関係がなかった。僕だって嫌だった。絵描きを辞めた後、また絵を描くなんて、とも思っていた。しかし、それはまったく今までとは別の創作をしている感じであって、いままでの二の次の作業ではないように思えた。一言で絵といっても、何千通り、何万通りの絵の描き方が存在する。それは数えきれない方法論であり、いままで美術界で記されてきた方法論は数えきれるほどでしかない。現代社会、あるいはマスコミには、まだそこまで拾いつくされていないといえる。描くという所作には、空間、モノ、空気中の物質の存在、地中に埋められている石の数、流砂の数、ほどに広がりと可能性を感じている。それほどの限界のみえない作業。それは1つの単語、意味の広がり、数種類の意味合い、あるいはその組み合わせによって作られる数パターンの実践方法、限られた空間内での自由な原子とでもいいかえられるような、小さな枠内での存在。たったその一つの単語を別の単語達と連ねて文章に起こすことによって広がる空間の概念、一気に無数に存在するルール、加速度的に広がる可能性、追いつけなくなる私たちの把握力。表現には無数の扉が用意される。その中で人間は決定を行い、その道筋をたててゆく。道筋を建てなければ、ルールは崩壊し、無限大が広がる。無限大では人の能力が追いつかず、それは表現以外の概念として忘却される。忘れ去られたものは、当然社会やマスコミにコミットできず、それは藝術の枠からはずれてゆく。太陽の光はモノに当たり反射を繰り返す。例えばそれは葉っぱに当たり、黄色と緑と白、それに空の青色あたりのスペクトル分子を含んで反射するとする。それを人間の目は大まかにとらえ、けっして具体的にとらえられるものではないとする。しかし人間の眼はとても良いとされている。色の違いを細かく認識出来る機能がついている、らしい。きいたことがある。僕もなぜか、その光の乱反射からおこる色の飛散を目で捉え認識出来るような気がしている。それを表現したからといって何もないのだが、僕にはこう見えているという具合に、紙へ色を書起すことで1つの伝達による可能性が生まれる。そこからさらに伝えたいことは二次的に、三次的に広がりを見せる。追求の最中に出会う偶然に興味がある。なぜ無数の扉が浮かんでいる空間から、その扉をひくハメになったのか、それは偶然では起こりえない、奇跡、つまり必然がもたらしめる悪意が存在するのかもしれない。悪意によって、作ることに魅了されている人間は、不幸を味わい生きている。僕はだれしもが不幸だと思っている。不幸でいない人は存在しない、と思っている。もともと不幸とは測り知れない。幸福というのも同じで測り知れない。測り知れないものを確定的な言葉として扱うのは少々度が過ぎる。3割不幸で、5割平凡で、2割幸福である。などそういった言い方をしなければ良く解らない気がする。人間のすごいところは言語化する以前の段階で、すでにそれよりももっと細やかな自身の心情の判断を計算し、算出しているところではないだろうかとも思う。僕にはそんな感じがある。言語は非常に曖昧な存在である。人間の本来の緻密な計算量(これは言語化出来ない夢のようなものだ。夢のニュアンスは言語化しづらい、というか正確には出来ない。)に比べれば一目瞭然、言語の方がまさに劣る。それは人の気持ちが言語によっても100%の理解が得られないところにある。付随した色々な必要な要素が抜け落ちている可能性がある。すべてを語るのであればそれは悲惨な文字数、単語数によって、さらにその単語の中の意味までもを文章化し、そのように無限大の広がりをみせかねないことになるだろう。空間は広がり続けている。それを収縮させるチカラが藝術にあるとするのならば、将来、人はコンパクト化を目指している、と言えるだろう。すでにそれはアップル社がやっていたことなのかもしれない。無駄を省き、既製品を新たにデザインしつづけマーケットを獲得した。無駄を省くことが人間の使命なのだろうか。。本当なのか、はたして。。しかし、一等地の土地がいくら地価が高いからといって、上に引き伸すという建物、ビルディングを乱立させるこの世の中の一体何処がコンパクトなのだろうかと、僕には色々な疑いがある。コンパクトとは何なのだろうか。なぜ、偶然は綺麗なものとされるのだろうか。偶然とはなんなのだろうか。偶然が綺麗といわれ、コンパクトは小綺麗と謳われる。この二つには意外にも共通点があるような気がしている。それが共通してみられるのが焼き物である。焼き物は焼成の窯炊きの間に、炭が偶然飛び散り、それが焼き物に付着、そして独特の模様、色合いが生まれる。こちらから作用しえる食器や、茶碗などの形容と偶然から生まれる模様とから完成に至る焼き物に興味をそそられる。また、輪郭を表す影にも注目したいとも思う。とにかく今はモノの形容に関心がある。心地のよい輪郭とは、、。自分がなんでそれを観た時に感動したのかを追求したい。なんでそれを考えているのか、ではなくて、なぜそれを目や耳で捉えた時に心がふるえたのかが気になるのだ。だからモノを創ることがやめられない。なぜなんだろう、、と考えている。おそらく偶然はないんだ。いまだにわからないことが多々ある。それは10年前捉えたあの瞬間のあの感動のことであったりする。まったくわからずここまで生きてきてしまった。つまり、まったく進んでいないように思う。藝術被れとかそういうことではない。藝術にすらいない。僕は美とは関係のないところにいる。確実にこれはただのお遊びである。僕がやっていることはなにも高尚ではなく、なにも素晴らしいことではない。それはゴッホとて同じである。ただ、生きているだけなのだろうとおもう。すばらしいのは毎日体を動かし労働している人たちだ。僕はそういう人たちよりも完全に劣る。つまり、恥さらしなのだ。恥を忍んでこういうことをしている。劣っているからこういうことをしている。と常々感じている。なにも凄いことは無い。毎日同じ時間に起きて、動けて元気のある人間の方が素晴らしい。それに優るものはない。ものを作っているひとも、そういう生命活動をしている人はすばらしい。やはり人間の尊厳は、生活が基盤になっている。これは間違いがない。僕はどんなに才能や能力がなくても、生活の基盤がしっかりとれている人に尊敬の念を抱く。無条件だ。誰にでも出来るけど、結構むずかしいことだ。僕はそこからまずは組み直さなければならないのだ。それは解っているつもりだ。つもりだから、いつまでたっても治らない。ダメ人間とはこういう人のことを指す。まさしくそれは僕である。これはもう決められている。無限大の可能性があるのだと言っても、人が生来認識している遺伝子の連なり、共感覚的な道徳心には敵うまい。僕は素晴らしい人間にはなれないだろう。少なくてもこのままでは。しかし、認めなくてはならない。自分自身のことには目を背けられない。そういう風に出来ている。考えることのできる人間には自意識を多く持たされすぎている気がする。自分から目を背けることの出来る時間がもてるのは、好きな人のことを考えている時だけよ、とマリアが告げる。残酷な時間は虚しくも続き、そして過ぎてゆく。熱中すらできない人間は生きる方針を失う。そういった人間達がどこへいけばいいのか、それは地獄か、それとも天国か、僕は知らないが、そんなことを勝手に考えているととても虚しくなってくる。人間は熱中しなければならない。そんなように思う。熱中してないと生きられない。それは他人に熱中することだってあるだろうし、創作かもしれない。熱中できない人間がいるとするなら、それこそ、ノイローゼだ。

 

親父がジャクソンポロックに似ている。ジャクソンポロックを観て、僕は親父を想う。すると、本物の親父を想う以上に、親父を想う。僕はいままでなにも親父にできなかったことを告げる。そしてこれからもそれはわからないことを告げる。ただ、支えてくれるその存在がなんなのかわからない。自分が存在している意味の一つとして、ジャクソンポロックにただ似ている親父を付け加えるまでもなく、ただそこに居る。なんでだろうかなあ、泣ける。