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僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

有から無への問い。

2015.3.8日曜日。起床午後2時30分。ぐっすり、いつもの感じに戻る。朝型になりたい。できれば。もっと生活を調律した形で毎日を過ごせるように心がけてみようと思う。だらしない生活をしていては、なぜだかわからないが、良いモノが作れない気がしている。どこか清々さに欠ける、逆にいえば、混沌が混じる作品は生まれるかもしれないが、僕は朝11時くらいには起きていたいので、その感じで生活を送れるよう、改めてみよう。先日僕から友人の山根にメールを送り、日曜日に会えたら会おうと言っていたのが、実現できそうだと山根からメールきたので、今日は山根に会う予定だった。しかし、僕がなかなか起きないので、一回電話貰っているにもかかわらず、爆睡してた💦眠気にはまったく何も敵いません。これでいいのだ。人間は、生物は寝なければ!

というわけで、出遅れて登場。いつものセブンイレブンで待ち合わせ。喫茶店で話そうということになる。いつも二人で会うと行く喫茶店、倉敷珈琲という場所があるのだが、今日は気分を変えて、前にノブと山根と僕とで一度行った場所へ行くことに。珈琲舎という場所。山根はタバコを吸うので、いつも喫煙席に座る。僕もそれに付き合う。しかしタバコって臭い。吸わなくなって余計に臭いを敏感に感じとるようになる。まあ、仕方なく喫煙席へと座る。山根はタバコをやめないだろう。苦笑

珈琲屋で飲む珈琲が高くなっている!一杯500円近くする珈琲は店の雰囲気も込みの値段だろうけど、ラーメンが食べられてしまうこの値段はさすがに可笑しいと思う。これでは、人と対面して長く語らうということがやりずらい。語らうことの価値が下がっているようにも思う。有名な芸術家、岡本太郎の本に書かれていたが、岡本はフランスのパリにいた時代、常にカフェテリアへ入りずっと座っているらしい。すると、自然と集まってくる哲学者や研究者といった知識人たちと一日中語らっていたらしい。そういうドラマがとんでも無い方向へ人生を転がせてゆく。しかし、それは偶然ではなく、必然的に自分の殻を剥かれるような感覚をもってして、どんどん人は自身が本来持っていたであろう志向へとの距離を縮めて行くことが出来る。語らうことがとても必要な行為に僕には思える。ああ、いいなあ〜って羨ましくなるような物事には自身が必要としている何か本質のようなものを感じざるをえない。いまこそ、僕は語らう必要を感じている。もっと自身の考えていることを他者へと伝達し、それに対してのありがたい反応をもらい、僕はそれを大切に蓄積してゆく。そして新たな知識を得た僕はその知識と共に、また自身が考えうるべきものにたいして真摯にぶつかってゆく。そして自身への距離をつめてゆく。本を読み、文章を書き、発し、内在を明かす。証明の連続である人生は真に楽しいと思えるように、書きたい衝動にかられる絵でその証明を試みる。僕にとっての生きる道筋は思いつくままに動くことと、それに付随してくるお金への不安要素を解消すべく、小学校や中学校で所属していた運動クラブの延長線上として考えている労働をこなす。大学をでても、僕は運動クラブに所属している。それが労働であると思っている。どこへいっても先輩はいるしね。身体を動かす、自分に出来ることだけが労働の条件。挑戦はなるべくせず、挑戦したいと思うことだけ、そのときだけ専念し努力する。それが運動クラブの信条である。顧問の先生はなぜかいつも来ない。どうやらあまり教育熱心ではないらしい。トホホ。。笑

そんな感じで、山根と話す。ひさしぶり。彼は高校生からの付き合い。高校は理系一筋のクラスだったので3年間変わらずという、非常にキチガイじみたベクトルをもったところにいた。人間かわるものなんだよ、というのが今の僕の意見である。いずれは文系にいきたい、と言うやつももちろんでてくるのが筋である。ま、案の定、そういう人はいた。彼もその一人である。彼はその後、彼の持ち味である特技、子供の頃から続けてきた創作を生かし、神戸大学へ進学を果たす。彼は野心家である。いや、冒険家である。しかし堅実な道から外れることを極端に恐れているため、企業に属している。隠れているのだ。隠遁しながら、自身の生活を確保しつつ、生きている。彼は僕に似ているのかもしれない。冒険家でありながら、社会に属して生きるという、反面をもちつつ、その不適合を統合して生きる姿は、まるで無理をしているかのように見える。しかしそれは思い込み過ぎであるようだ。彼はジッと、その2つの不適合要素を抱え込みながらも、統合させながら生きて行く術を身につけているといえる。そんなことしてると病気になりますよ、、薬なくても大丈夫ですか?と普通なら問いたくなるほどの異常な行為である。彼はもっと自分の才能を生かして、社長になりたいと冒険家らしいことばかり言っている。しかし自分の才能が何なのか、自分が何が得意なのか、わからないらしいので、僕が教える。今日、彼が幼少の頃、何をしていたのかを初めて問うてみた。すると、大体TVゲームをしていたという。ほお、TVゲームですか、、と僕。しかしそれは中学生頃の話し。小学生の頃はどうやらよく外で遊んでいたらしい。鬼ごっこやケイドロなど。子供らしい遊びである。僕はその遊びに関して、何か自分でルールを改造したりしなかったのか?と問うた。そういうことはまるで無かった、と山根。でも、山根はひとつだけ思い当たることがあるそうで、だれよりも、上手くやろうとしていた、と言う。ルールにそいつつも、だれよりも上手く、ゲームをやってやろうという野心は強かったみたいである。それだ!と思った。彼は勉強が得意である。僕は過去に勉強ができない中学時代を経験した。しかし、石田塾という個人経営の塾へ通った途端、成績は急上昇した。つまり同じ勉強はしていてもダメで、自分の頭に入りやすい勉強方法というモノが存在することをそこで知る。質と量の問題である。山根は子供時代から自分のやり方について思考をなんども構築していた。つまり創造していた。自分に合うやり方、上手くやるための方法について道筋を建てるプロフェッショナルになっていた。だから、彼は高校3年生まで勉強が僕と同じで全く出来ない人間だったにもかかわらず、その後たった一年の浪人生活で、必死に自己の勉強方法を構築し、見事神戸大学へいった。センター試験は全ての教科9割以上とる、という僕から見れば異常な成績を残した。山根は自分を解析することに長けている。子供の頃からのそうした自分のやり方への創作が今になっても役に立っているみたいだ。ということを発見する。彼は驚いたように僕を見た。しかし、僕にとってはそんなことにも気付いてなかったのか?というようなことである。山根はいままでずっと、自分は創作に縁がない、何も作らず消費している人間だと思っていたらしい。僕が思うに、そんな人間はこの世にいません!ということである。というか、いままでそんな人に会ったことが無い。常に人間は何かを考え、創り上げる。これは生きうる限りそうなのではないだろうか。。

山根とは、3時間くらい喋った。主に僕が3次元と4次元のことについて話してた。山根は昔のように尖ってない。昔の山根は本当におれを否定してきたのだが、今はそのような気配がない。喋りやすい。しかし、彼は常に疑ってくるし、僕は僕で必死で伝えようと話しをする。生きるために必要ではないこの内容が、ずばり僕は必要であるというように。そういう真剣な態度で話すと伝わる。熱中する。

僕には突然降ってくる直感のようなものに4次元的な概念を見ることがある。何も予期していなかったところに、突然入り込んでくる、夢のような割り込み、つまり直感に感じるのはどこからともなく引かれる一本の線、xyzのどの線にも交わらない時空の存在である線が引かれる様子を感じる。例えばそれは、冊子の片面に数種類の色の絵の具をおいて、閉じて開くと現れる模様のように、なんら自分では意図出来ないところに何か偶然性を感じることがあるような気がするのだ。大竹伸朗さんなどは、プラモデルの部品が取り付けられているその外枠の部品に何かを感じる、とおっしゃっていたが、それはまさしく意図しないところで、創られる複雑な何かであり、偶然がもたらしている形そのものであると思う。つまり4次元の感覚を覚える。その偶然できるものが美しいと感じている僕の感性が絵を描く行為へと僕を惹き付けて止まない。そのようなことを山根に話してみる。山根は無から有は生まれない。という。つまり、過去に何らかの刺激をうけ、直感や夢は無意識側で知らぬ間に形作られている。それが何かの拍子で表にでてきて、信号をあたえるのではないか、というのだ。さきほど述べた絵の具の例でいえば、例えば科学的な根拠からいえば、完成形が大体において想像できる。冊子を閉じた時のチカラの加え方や、絵の具の置き方、そして押さえつけられたときに、絵の具が飛ぶ方向や広がり方まですべて推察出来る筈だ、と言った。直感はすべて今までの経験則からくるものではないのか?との疑問を頂く。0から1は生まれない。と説く。僕は悩んだ。しかし、よくわからず、この話題から目をそらそうとした瞬間、じゃあ有から無はつくれるのか?という新たな命題をおもいつく。1から0へのベクトル。山根はびっくりした様子で、そんなことかんがえたこともない、新しいな、といった。新しいことなのかはわからないけど、おもしろそうだ。僕には有から無という概念が実は偶然と深く繋がっているのではないかと推測する。偶然とはさっき出した例のように、意図しないところで作り上げられる概念で、だれも知らない、認識しえないもの、つまり無という概念にそれを置くとする。しかし何も無いところから、その無という概念は創り上げることは不可能である。無から無はあり得ない。もともとある物とある物を掛け合わせた時に、無という意味不明、正体不明のものができあがる瞬間、僕らがみたこともない、知ることもできない、言葉にできない感覚である無の概念は生まれる。触れることが出来る。つまり、有からの無という理屈は、すなわち偶然という言葉で置き換えることが出来ないだろうか?と僕はいちおう山根に伝えておいた。

山根はなるほどという感じで僕の話しを聞いてくれる。こんな話しを続けても怒らない彼は何ものなのだろうか。ありがたい限りだ。

 

とにかく興味、関心のあることだけを話そう。

就活の話しなんかやってられん!興味はおろか、関心すらない。

次は蚤の市へいくべし!