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僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

生活、一歩一歩踏みしめる。

踏みしめたい。

2015.3.7土曜日。起床朝5時30分。眠い。めちゃくちゃに眠いので、上半身を起こしたまま、数十分間はぼお〜としている。6時手前に動き出す。雨。ざあざあ降っている。こんな雨の中、僕は岡山駅まで自転車を40分近く漕がなければならない、冗談じゃない。昨日の夜、派遣会社から何度も電話が入り、定員なので土曜日のお仕事無理でーす!ときたり、欠員でたので入ってくださーい!と来たりで、なんか怪しいと思ってたけど、こういうことね。天気予報みてたら、明日の朝雨だから行きたくねーわ・・・っていう大学生が居たんじゃないだろうか。ま、わかるんだけど、ふざけるな、ゴルァ!という訳です。なんでおれはこんなことに怒らなければならないのか自分でも説明がつかず、朝からたじろぐ。しかし、そういう余計な想像が自分をいきりたたせるのもまた、真実である。キルケゴールの文言みたいになってしまった。ニュアンスでの会話をし続けているので、こんなよくわからない伝わらない感覚を僕は所有してしまった。非常に残念なことなのかもしれない。つまらない人間万歳。

家をでると、雨は止んでいた!奇跡!!これぞ、晴れ男である。僕は晴れ男ではないけど、最強の岡山市内の晴れ男が、いま!僕と同時に家を出たに違いない!!と僕は陽気に想像しながら、駐車場から自転車を引っぱりだす。狭いスペースなのに車が3台も停まっている僕の住んでいる家の駐車場は、これまた僕を苛立たせる。しかしそんなことにももう慣れてしまった。怒っても仕方ないのだ。怒りは止めどなく流れるだけだ、血液のように。早く車売り払ってくれ、、と届かぬ声をあげ、僕は長いようであっという間の旅路につく。地面の黒いアスファルトからは、雨の匂いがする。アスファルトは不思議だ。正確に雨の匂いを拾う。雨の匂いを拾わせると、アスファルトの右に出るものはいない。これがまた不思議である。雨の日は土の匂いもする。木の匂いだって香ってくる。緑の葉っぱの匂いも。まるで、生命が産声を上げたその当日が雨であったことを一つずつ証明しているかのような、そんな雨上がりの朝。まだ絶対雨はふりだすだろうことを予期しつつ、僕は自転車と一緒に走った。ペダルをこげば前に進むこの自転車が僕はとても愛おしい。ハンドルのクビ部分が少し錆び付いていて、ガタがきたのか、少し悲鳴を上げる僕の自転車はそれでも、走ってくれる。早く手当てしてあげたい。自転車は僕の相棒なので、新しく買い替えるのではなく、とことん使う古すのだ。今の僕のモットーです。とにかく修繕、修理、当たり前。そんな意気で僕は生きる。そうすることで僕はとても自らのオリジナルの道をまた一歩だけかもしれないが、歩くことが出来る。自分のこだわりを貫きたい。譲りたくない。これは僕自身が僕に向けている愛でもある。気持ちは伝えるものでもあるけど、持ち続けたいものでもある。

バスに乗り、またしても工場へ向かう。40分くらいで到着。僕はバスが好きで、特にバスシートの乗り心地が良いと思ってる。暖房の感覚も適温な気がするし。扉の開閉があって、そこで冷気が入ったり、熱気が入ったりするんだけど、それがちょうど良く外の空気を取り入れ、風通しを良くしていると思う。大きなタイヤが道路の微妙な凹凸を走って、上下にゴム製タイヤが揺れている感覚をお尻で感じるのも好きだし。席がタイヤのところは盛り上がってるあの雑さが良い。バスみたいな乗り物つくれないかな。たぶんバスじゃないと僕を興奮させてくれないんだろうけど💦あの空間でないと、おそらく無理だろう。運転手が操縦するおじいちゃんみたいな駆け出しの助走から、すぐに信号にかかって、とまっちゃう感じや、調子がいい時は、どんどん馬のように翔ていき、ボォオオーーーンと音をあげながら走るバス。独特な声をした女性の宣伝アナウンス。全く無関係にそれを耳にいれつつ、眺める外のゆっくり流れる景色。全てが必要な要素である気がしてくる。バスはそれほどまでにロマンチックな乗り物なのだろう、僕にとって。

工場に着く頃にはやはり雨が降り出していた。岡山市内一の晴れ男はもう屋内へと移動し終えたのだろう。僕はこれから、バスを降りなければならないので、僕の晴れ男の証明はここで失敗したことになる。残念。そして、仕事。

仕事をしている最中に気になったことがある。仕事ができる人間が僕が今日行った仕事のメンバーの中に一人居たのだが、彼は自分や周りが動きやすいように、自ら動き、道具を揃えたり、作業がしやすいようにと工夫を凝らしていた。ただ一人、結構思いつきで動くようなそぶりを見せた。これは何なのだろう、、と僕はその様子を観察していた。なんだか気になる・・・。彼は必死に自分の空間を、いや、自分だけではない他者を想像し、交えた共有空間を作っていたのではないだろうか!それは、まるで鳥たちが、自分の子孫を生み育てるための巣を作る行為に似ている。坂口恭平さんの言葉をつかって申し訳ないが、まさに、巣作りであった。そのように、自分だけではない、他者を交えることを想定して作られる空間は、他者に取っては文句の一つもいいたくなるようなものかもしれない。特に仕事だと、そういうことを無断でやられると怒る人が居る。言葉をかけてからやってくれ、というような人も出てくる。つまり、もしかしたら、その人は自分の空間内を他者の勝手な創造によって、犯されるのが苦手なのかもしれない。そういうような感覚は概念から生まれる感情なので、言葉にし難い。勝手に犯されている感覚があるのだ。しかし、各々が見ている視点はそれぞれが全く別のものを見ている。同じ場所にいても、それぞれの視点で、それぞれに全く違う景色が映し出されている感覚と、空間を犯されて、不快に感じる感覚、これらは全く別であるといえるかもしれない。この場合の空間とは、集団として人が集まった瞬間に、集団としての空間を自然に、誰が提唱したわけでもなく、スイッチが入ると同時に黙々と生まれる、言葉にできない共有概念なのではなかろうか。すると、個人という領域で生み出している空間には、既にそれに薄い膜がかかるように共有の概念のベールで覆われている可能性がある。というか、確実に僕はその共有の概念を集団でいるといつも感じる。だから、主導権などという言葉が生まれる訳である。共有の概念を一度強固にするために、主導してゆく存在が必要不可欠となってくる。しかし、僕はここで問いたいのは、僕らはそれぞれの独自の視点でもって、毎日の生活を送ることになっている。現実ではそれ以外生きる方法はない。僕らは独自の感覚でもって、独自の光景をもち、独自の視界しか、興味の対象しかその目は捉えることができない筈である。言い方をかえると、無意識下において興味関心のある物を見つめ生活をしている筈である。蛇口をひねって、顔を洗いたい時は、蛇口を捻るレバーを見る訳である。こういったことは、意識しないでも毎日行われる情報処理能力として、人間は高い順応性を発揮している。生活のために金を稼ぐのではなく、ただ、目はモノを捉えている。実は生活に最低必要源の言葉にならない概念は、身体の構造にその意味が宿っている気がする。話しがややこしくなってきた。

集団としての共有の概念のことなのだが、実は、これには確かに「共有」の概念として、他者への譲り合いの感情が包含されている筈である。しかし、それにもかかわらず、私たちはかならず独自の視点でしか生きることが出来ないという身体的な性質を併せ持っている。とするならば、その共有の概念で覆われている、独自が築き上げ、持っている空間そのものは、結局は自分自身の独自の視点でしか語ることのできない音のようなモノなのではないか。つまり共有の概念そのものが、既に独自の視点によって語られている。そうであるとするならば、その共有の概念そのものにまったくの信頼を置けなくなってしまう。これはまるでコミュニケーション障害を皆が患っている状態であるとも言える。それも生まれつきの身体の特性上の条件付けとして、既に。

思いもよらぬ方向へと話しは転がる。こんな結末は予定していなかったが、それはいつものことである。ちなみにこんなこともあった。仕事の休憩時間、一時間の昼休み休憩なのだが、食堂でみんなご飯を食べるんだけど、そこには時計が置かれていない。つまり携帯電話などを所持していなければ時計を確認することができない。もちろん、僕たちは一人一人が責任をもって、時計を確認すれば問題なく始業時間に仕事場へ集まることが出来る。しかし、全員が全員、時計を確認している様子は微塵も無い。周囲を見回しても、そんな感じではない。顔をつっぷして寝ている人までいる。この人は何を頼りに休憩時間が終わりを告げる瞬間を確認するつもりなのだろうか。。不思議だな、と思うと同時に、そんなのは簡単だとも思った。他の人が席をたつときに引きずる椅子の音や、足音を頼りにすれば、時間を確認せずとも、時間を知ることが出来る。目で見ているものが全てではなく、音をきくことで、まるで目の前の景色よりも信用出来る景色が広がる瞬間があるということである。これは、とても不思議なことではないか。単純なのだが、これを応用していくと、とんでもないところへありつく気がしている。とにかく人は何かの情報を頼りに信じ、動くことができる動物である。人でなくともそうなのかもしれない。とにかく複雑な思考を毎日通わせていることは確実だ。その一気に複雑化した思考は、人間の身体では処理しきれずに"直感"というまるで錯覚のような電気信号によって、とても簡潔な感覚として処理されるのだろう。"直感"とは人間の身体的機能の中でも最も上位に位置する複雑な思考の種類にカテゴライズされる筈である。そうじゃなければ、言葉で表せない概念として処理されることは無い筈である。"なんとなく"は馬鹿にできない。その"なんとなく"の中に幾重ものベクトルを感じる。x,y,zだけではないさらに座標の軸は同一面上に引かれ、重なり合い、時にまったく重ならない線として処理される。しかし空間は繋がっており、多重の層をなしている。それが直感という概念を模しているのであれば、少しだけ人間という生き物の生態真理が解き明かされたことになる。真実は、現実は、夢より奇なり。。

同一面上と書いたが、本当は多層面上なのではなかろうか、、そう、丁度大竹伸朗のスクラップブックのように。

人はもっと自らの感覚、直感によって動き、巣を作らねばならない。たとえ、それが他者の空間に侵入しようとも。侵入することは悪ではない。悪となる侵入方法をとるから、悪になりえるのだ。水面を波立たせない侵入の仕方は、自らの身を鋭角に尖らせ、スッ・・・と切れ込みを入れるかのように射すのである。それはまるで突然の挨拶のようでもあるかもしれない。自らが信用した証である直感を、吟味してはならない。吟味した途端、それは思い出になってしまうだろう。直感の瞬間、それそのものは現実という奇なる夢に変換された高度な証明が行われた。

わたしじゃない何者かが明らかにした偶然を、僕は信じたい。