趣味の世界

興味のある事

僕の日記は英語で表記されている可能性がある。

2015.2.28 日曜日 起床午後3時30分。おはようございます。労働明けの新鮮な筋肉痛とともに、僕特有の朝を迎える。息がすこしくさい。昨日チョコレイトのアイスクリームを食べて寝たからだ。非常に高級感でてるアイスクリィムであり、美味しかった。たしかparmというアイスクリィムであったように覚えている。みなさんもよければぜひ。

さて、どうやら今日は雨が降っている。窓の外からひびく雨音の情報と、部屋を出た途端に湿り気のただよう空気とが僕の顔面の肌との接触によって機嫌の有様を示してくれる。雨はめでたい。昔の人々は生きる為のお米や野菜を作る為に水が必要であることをずっと僕らの感覚よりも真剣に感じとっていた。だから、そのために自分たちの仲間を生け贄にしてまでも、神(sizen)に水を降らせるようにお願いしていたのだった。雨かぁ、そうかぁ、と僕は少し嬉しくなり、引きこもることを決意。今日は外へ出なくていいんだ!やったあ!と宮沢賢治。本とり、めくるようにパソコンの電源をいれる。そして起動の間に緑茶の葉を用意しお茶を入れて、顔を洗う。今日の予定はない。いつものことだ。予定など入れない。即効で決める。昨日建てていた予定は、僕の感情という天気(転機)により、簡単に崩れ去ってしまう。だから、予定を立てる事自体向きじゃない。昨日と今日とでまったく気分が変わってしまう僕は昨日の自分を恨むだけなので、予定は建てないことにしている。ついでと言ってはなんだけど、付箋をパソコンの画面に貼っている。いつかやれ!という付箋を。村上隆の藝術闘争論を読め、と書いてある。あと岡山旅行ツアーコンダクターとして岡山を宣伝するように!と出掛けてフィールドワークしてこいとのこと。、、外で絵を飾れ!そして写真に撮っておさめてみては?などの提案も書かれている。夏目漱石の三四郎を読めとも。笑 夏目漱石おもしろいものね。まるで現代の人間模様を明治時代の舞台に当てはめてリアルに描かれている生活感などは興味深く、夢のようでいて、実に人間味あふれているただの現実なので、ハマる。

ブロックを積み立てるような音楽を聴きながら文章を書いている。Perfumeというグループの音楽なのだが、彼女らの踊りを見ていると気付く、彼女らの歌う音楽と非常にリンクしている。流れるリズムと、身体を走る電流のビートがとても別物にはおもえないほどに。それが電気として僕らの身体を駆け巡り、波長がぴったしではないにせよ、歌手と僕らが同じ部分を運動させることによってシンクロしてゆく。僕はそこに偶然ではないパワーを感じた。そうやって音楽を選んでゆく。選曲とは自分の身体をつかって拾うことに近い。流しそうめんのようにながれてくる電波をキャッチするかどうかは、僕の空腹度次第なのだ。空腹を満たす為には、触感や味覚、嗅覚という厳しい判断基準を超えなければならない。試練の門である。これらの試練をくぐり抜けたものだけが、腹におさまり、僕の空腹感を満たせる!という判子、お墨付きの証明が与えられる。だから、すくい取られたそれらは両手をあげて喜んでもらいたい。いや、ぼくはそれらに会えて幸せっす!というように、さらに多くの人へその食べ物を配り続ける作業へと専念する。そうやってえぐみ経済は廻って行く。そんなの小学生の頃から知ってるって?そうですか、あなたは育ちがいい!!ってことで、よろしくねん。

軽い挨拶がおわり、僕は今日という休日を、自由にだれかとだれかの思考、概念がとびかう交易の場へと無意識に何かを拾いにいくためだけに足を運ぶ。何かを拾うこととは、何かと出会うことである。全ての人間はそのために生きているのではないかという僕の錯覚は告げている。僕ももちろんその構成員の一人である。奇跡しか拾いません!1gのダイヤモンドを拾うには、10tの土砂を集めねばならない。とテレビでしていた。現実ではなんと10tも拾わなくても、あるいてたら、ダイヤごろごろあるんですけど、、状態なので心配はいりません。僕の目がそれをダイヤとみれば、価値はグググン!と跳ね上がり、かるく値段つけられませんっ!!ってくらいにはなるので、大丈夫ですか、、?ついてきてますか?いいですよー寄り道?いいですね〜。寄り道しましょう。各々、寄り道して、ネットサーフィンみたいにただの偶然を暇な時間から探り当てましょう。それすなわち採掘作業!みんな、授業中は採掘作業員になるのです。だから、偉人の写真に落書きして、これ面白れー!!って熱狂して写メしちゃったりするんでしょう?テストの答案用紙なんて裏にただの漫画原稿用紙にしちゃって、漫画かいたり。そしてそれを先生が読者になって、読んで、感想かいたりするんでしょ。そういうの、ただの才能っていいます。こういう話しばかりだな、お前?って??そうですとも、僕はこういう話ししかできませーん!だから友達もすくないんですっ!!最近どう?なんてきかれても、いつも変わらないので、どう答えていいかがわからなくて困るんです。で、お前はどうなの?って聞き返します。おうむ返し!!すると、ぺちゃくちゃなにやら話し始めるので、とりあえず聞くと、あんまり変わってないらしいのです!笑 そういうもんですって!最近どう?ってきかれたら、いや、面白い場所発見してねーってそういう会話しまくることにします。もう、僕はそれでいきます。ツアーコンダクターえぐみ。岡山の勉強未だせず。苦笑

岡山城の何に興味があるかと聞かれれば、僕は確実に岡山城が建っている下の方の石が積み上げられている、アレに興味があります。石が積まれているだけに見えるのだが、あれは実は緻密な計算によって置かないと崩れてしまうだろうことや、壁面がいい感じに揃っていて綺麗であることや、とにかく生命力半端ないっす!ってくらいの命の数々を感じるし。すごいんです。そういうものを感じとれる場所を知っているのだ、、ここはいいっす、と言える場所を。ただの自慢なのですが、他者にとってはどうでも良いことだったりするかもしれません。汗 どうやったらそれを感じとってもらえるのか、そのことを考えるのが僕の役割なのかな、と最近感じている。たとえば僕の高校の同級生で、ぜったいこれ伝えても反応しない奴いるな、という存在がいる。そいつに伝えるにはどうすればいいのかとか考えてみることにしようとおもう。その一見不可能に近いほど難しい、一筋縄にはいかないことの方が大切な気がしている。その人がどうすれば城の城壁へと視点の焦点を合わせてくれるのか、いや、合わせやすく設定出来るのか、、僕の情熱は熱すぎてもだめだ、低すぎてもナンセンス。ちょうどいい湯加減で、相手のテンポに合わせつつ、詐欺の心得で。しかし真剣に。噓は真剣につかなければ、真実にはならないのだ。笑 フーンで片付けられてもよい。ただ、その目が何処へ向いているのかを確認する。人は目で語る。目は嘘がつけない。目だけが生きれば、言葉にはたいして依存しなくてよいのではないか。ただの一回、失敗してしまうことももちろんあるだろう。たくさんの失敗をしてしまうかもしれない。だけども諦めないだけの興味を自分が携えているのならばどんどん歩こう!興味は潰えること無く、僕はまた細かい路地へと足をのばす。そしてしらない植物や木に出会い、雲行きがあやしくなれば、傘をさし、なんなく歩く。難はあれど、ナンがなければ腹は膨らまず。難が降ってきても、ナンだと思えばいいのだ。たべちゃえ!

そのくらいの息で、域で、意気で生きていくのだ!そうすれば腹もへらない!精神がすり減ったら、メンテナンスしてもらおう。技師はあちこちにいる。メンテナンスしてくれる他者を探すのもいいし、場所を探すのもいい。あなたの温度にあった温泉をさがそう。どんどんゆこう。探すのが得意になっちゃったら、こっちのもんなのだ。難をナンとまちがえて食ってしまえる愉快な詐欺師は、何者かにさらに騙されている。騙しているとおもっていたこちらが騙されて、愉快に笑う。阿呆になれ。阿呆に。

 賢くなってしまう。人間はいつも賢く在らねばと、知識を温存する。無駄に拾うことなく、披露もせず。しかし僕は手許をかくさず、披露していたい。無駄に拾い、無駄に作り、披露しきれないほどになり。。。疲労はせず、披露し、拾う、ヒーローになるのが僕の目標である。たまにめんどくさくなり、披露しないことがあるけどね。そんな感じでどんどん歩こう。進歩し、実感し、風に乗り、味わい、飲み込み、寄り道し、草道し、草をたべ、吐き、飯を食う。お茶を飲む。歩く。走らず、たまに走り、小走りし、息をあらげ、おちつくまで歩く、音楽をきき、くちずさみ、たまにトイレにより、手グシで髪の毛をセットし、またあるこう。疲れたら座り、本を読み、書きとめ、または書く。ウザいくらいに書けば良い。

ウザいくらいに同じことを遠回りして伝え続ける。偶然に出会えるようになってから、僕は少しずつではあるが、変わってきている。馬鹿にされても、こちらを進むのだ。こちら側にも道があることを知ったことがキッカケである。実はこれらのこともすべて、人の出会いがもたらしてくれた偶然による積み重ねであった。そのことを忘れてはならない。自らにひっそりと存在していたその存在に気付かせてくれたのは、歩くという僕の行為と一緒に歩いてくれた人々のおかげである。僕には無い視点をもっている他者との出会いは可能性を広げてくれた。それに気付くだけの経験値が自分にも備わっていたのだろう。予備知識として知ってもらいたい、そんな願いがある。決定打にならなくてよい。いや、なろうとする。だが、決定打でなくてもよい。僕に出会うひとが、僕の特性に触れて経験値を高めてもらえたらそれで嬉しい。だから、つくったものやとった写真や書き出した言葉は受け入れられなくても、読んでくれたり、見てくれるだけで経験値となり、絶対に新聞のように白紙のペーパーに吸い取られるインクのように、体感としての謎の紋章として、刻印されれば良い!そうやってだいたい常に自分が感じている感覚で歩いていこう。

不思議なリズムを貼りついだ代物のようにも思える曲を提供してくれる口ロロのあたらしいたましいfeat.金田朋子を聴き流しながら、文章を刻印した。

 

僕は迷子になる。日常でかわされている言葉がただの音にきこえるのだ。しかしそれらは確かな意志をもってかわされる言語であることを僕の身体のどこかでたしかに伝え聞く。その不思議な感覚がなんなのかイマイチわからないままに、会話に参加する。僕がそのききなれない言語でかわされているグループに加わろうと思った理由は、その人々?わからないが、そのグループの人々以外に周りは真っ白な光景で、地平線すら見えない場所だからだ。そもそも道がない。そのような不思議な空間に迷い込んだ?存在している自分が出来ることといえば、目の前で繰り広げられる言葉になっていないと僕が認識している言葉を、具体的に聞き取り、なおかつ、こちらも具体的な意志をもって、つたえんとすることを伝えねばならないという、ある種生き残ろうとする自らの使命だけである。言語に聴こえない音は、確かに言語化しており、目の前の存在は音を介しあいながら、納得の音でみたされた空間を創出する。それを僕は認識している。僕はまずは自ら出ずる言語を発することで対象への距離感をつめてみようと試みた。あのー、、、こんにちは。すると存在はこちらに気付き、うぉう、ぅいい、、あおぅい。。と投げ返してきた。まったく解らないが何故か少し理解できた。その音色は、声色は落ちついている様子であり、怒ったり戸惑ったりしてはいない。つまり、その言葉にならない情報の感情は判断可能なわけである。そこで僕は閃く、僕は言語に頼りすぎて生きていることを。仮病で会社を休む時に使う、体調が悪い、という言葉に頼るのではなく、体調が悪いという音が存在する。言語には音が存在している。それは感情という波を解釈するために必要な周波のような線であったり点であったり、色であったり、液体であったり、こびり付くかすれた汚れだったり、ねっとりしたゴム状の液体だったりする。音を出すのに重要なのは身振りと手振りだったりもする。身体をくねらせるように、ゆっくり動くだけで、全ての情報は穏やかであると一時的に統合され、外側へも情報として外部出力されるのだ。その緩やかな止まるようなダンスはまるで、我々は武器をもたず、攻撃するつもりもない、穏やかな丸裸なただの存在であることを告げているようだ。と、ココまではすべて僕の妄想である。確かな情報を感じとった僕は、存在達の概念を受け入れようとおもった。存在達の放つ言語はさらに曖昧さに磨きがかかり、その交わされる言語の肩と肩とをかすめる頻度はヒートアップしてゆく。そして、途端、ただのミュージックになった。ミュージックの語源は、、数日前に語源マニアになった浅はかな僕はi-phoneで語源をしらべた。

芸術と言えば音楽を思いつくという人も少なくないだろう。ミュージック(music)は日本人にとって大変なじみ深い言葉となっているが、その語源はギリ シア神話のミューズ(ムーサ) に遡る。すなわち、「ミューズの恩寵にあずかる人間の営み」(音楽、詩作など)を意味するギリシア語ムーシケー(mousike)がその語源である。

一方、「博物館」を意味する museum も、「ミューズの神殿」を意味するギリシア語ムーセイオン(mouseion)からできた語である。また、英語で art museum といえば「美術館」のことをさすが、この表現も当然ミューズと間連している。つまり、日本語の「音楽」(music)、「博物館」(museum)、「美 術館」(art museum)という三つの言葉は、いずれも対応する英語の表現で比較した場合、共通の語源を持つことが明らかである 。

ムーサ(古希: Μοῦσα, Musa)またはムサは、ギリシア神話で文芸(μουσικη; ムーシケー、ムシケ)を司る女神たちである。

 

ムーサ!!と僕は叫んだ。存在達は、押し黙り、一瞬、永い永い空白の一瞬が生まれた。その空白に僕は築かれたことを、空白は一瞬の眠りからの目覚めにより、気付き僕を捉え直した。ように記憶が残る。。。

 

僕が目覚めると目の前は白い雲と薄青い空だけが見える。まるでココが地球ではなく宇宙にでも来たかのように、遠く遠く現実から離れている場所への存在を認めてしまいそうになる。ただの空だけを眺めていると、広がったのか狭まったのかわからない光景に、度肝を抜かれる。人とはちっぽけなものだ。ちっぽけなものだが、このような大きな存在をとらえることすらできる。なんて大きな存在な僕ら。

存在、、ではなく、人々の声が耳にこだましてくる。ざわめき、楽しそうなその雑音が一気に僕を現実へと引き戻してくれた。僕は他者によってココに存在している。そうかんじることが唯一できるのだ。無力な存在な一人になると、どこへいくのかわからないので、つなぎ止められることのありがたさをかみしめて、生きることにした。

 

あいらーびゅー。