趣味の世界

興味のある事

口の無かった一日。

2015.2.28土曜日。起床6時。アルバイトさんに岡山駅に7時40分集合を命じられ、そそくさと具無し焼きそば弁当をつくり、父さんの昨日持って帰ってくれた弁当をチンして、朝ご飯として食べる。昨日の夜も同じメニューのを食べた。数時間しか経ってないのに、飽きなかった。これが技術、テクノか、、とふざけ混じりにも思う。それもけっこう頻繁に、、笑。飽きない献立、いや、弁当を作れる父は、なかなかすごいのかもしれない。それともただの飯のチカラなのか、そこらへん未だよくわかっていない。土曜日の朝だという、小学生だった頃に感じていた特別な感じはもうしない。いつも土曜日は少し寂しくなる。あの頃の朝起きて、カーテンからのぞく陽光を顔面にピンポイントで受ける朝がいつかまたやってきたら良いのに、とたまにピンポイントに思い出す。土曜日は僕にとってテーマの詰まった濃度の高い一日なのだった。正月には凧を揚げ、春には強風との闘いのため、外へ出て風に向かって叫び、夏になると、水風船をいっぱいつくった。冬は田んぼへでて、刈ったあとの稲をひきぬき、泥のついたそれを遠く放ってあそんだ。叱られたことは一度たりとてない。今もまだその田んぼには毎年、お米という種子が実る。自然てすばらしいなと思えるのは、子供の頃の通学路にあぜ道を通ってたり、田んぼであそんだり、川で魚つったり、川の水を田んぼへ引いたとき、フナが紛れ込んできてるのを知った僕は、それを手づかみで穫りにいったり。。まあいろんな自然とのふれあいがあった。だから自然を歩く感覚とかになじみがあるし、好きだ。身体のチカラをつかって遊ぶことが好きだった。今は工場の作業員として、鈍くてかってる鉄の塊に囲まれて、見慣れた、鈍く重い荷物を手やカートを使って運んだりしている。身体の使い方はあの時より、ずっと不自由に感じる。そうだ、これが労働だ、、と泣きたくなる。ただ、言葉はでないし、最近は愛想笑いができない。笑えないので、しゃべれないので、返事しかできないけど、今日はちょっと色々思いつくことがあっても、それがスッと流れて行く速度もはやく、僕は一言も喋らなかった。会話のないただの肉塊と定型化された返事で構成されていることを新鮮に感じた。元気が無いわけではない。喋りたくない気分と、笑うことができない表情の失踪からの戸惑いをも忘れた自分の背中が少し小さいことがわかり、程に合わない気の良い返事は、より相手を不快にさせた。相手の語調に敏感であると断言する私は、とてつもない偏見からくる羞恥を無視しつづける、愚か者の一人である。ギンの斧と金の斧だったら、確実に普通の斧を選択する、利用主義者である。

ある決められた配列の4つのナンバーは今日の僕をくるしめた。僕がロッカーへとしまった荷物はその4つのナンバーによって、または、そのロッカーのロックの仕組みが僕のせっかちというスイッチの逆鱗にふれ、発火した導線の勢いをとめることなどできるわけもなく、ぼくはそのままロッカー事故を引き起こしてしまう。鍵を締めた筈が、とたん、鍵を開けられない状況に陥るぼんくら。僕は瞬間的に4つの数字が持ちうる順列の配列パターンがいくつあるのか考えた。この場合計算式は、ヤフー知恵袋にきいてみたところ、4*4*4*4=256通りあるらしい。なんだ!こんなに少ないのか・・・?いやいや、間違えていました。0〜9までの10個の数字を使った4桁の組み合わせなので、10の4乗で、10000通りあるみたいです。だよね。256通りだったら自力でクリアするよ!10分休憩にでもね!めっちゃ疲れる休憩になりそうですがね・・。そんな時に何が救いであるかといえば、僕が老眼ではないということくらいだろうか。細かい数字は読んでられませんからね。僕は細かいのでも読める視力を持ってるので、ちょっとデザインチックな小さい文字の羅列のブログも読んじゃえます。おまけに文字の色が白っぽくて、読み難いやつとかもね。あれは焦点を合わせるのがむずかしいので、単純に辞めた方が良いと思われます。読む方は目を痛め、もう二度と来ねえ!ということになりかねません。いきなりブログの描き方講座になってしまっている。💦

これだからブログは・・・とブログのせいにしてみる。だいたい何のせいでこんなに日本は働いているのか。。と、すぐに文句をいう自分がいる。嫌なのに、文句を言っている。働くなーみんなーといいたいけど、みんな学生でもちゃんとアルバイトしていて、学業やテストの話し声なんかが聞こえてくる。ふーんと思いながらも、学業という世界一心で活動している者たちの会話である、、と聴きようによっては聞こえてくるので、まあ馬鹿にはできないな、、などとおもいつつ、僕にとっては退屈すぎた、その周囲の会話を聴くのはやめた。彼らからしたら、僕の興味の話しをどう捉えて、どう聞いてくれるんだろうか。笑わせる自信はある!それは本当に僕が面白いと感じている話題だから、当然っちゃ、当然なのだけど、、。笑ったら、解ってるってことだとおもう!っていうあんまり根拠ない自信がある。笑うってことは何かを受け止めている証拠。しかも良い反応。僕は笑われることが受け入れられている反応だとココでは受け取る。だから、僕の話しすることはだいたい、可笑しくなって笑ってくれたらそれがもう、ああこいつはわかってくれてる、というサインだと受け取ることが出来る。しかし、学生達にそれを話す根気も、気力も職場というカテゴライズされた空間の中では表出できずじまいに終る。職場という強制力の効いた空間は、周りの人間がカテゴライズされていて、パッケージングされている感覚をおぼえてしまう。これはおそらく僕の気のせいなのだろう。本当はそんな人間はあんまり居ない筈なのだ。話せばわかるんだろうし、話す機会が職場ではもてないだけだ。制服を着るとなぜああも人という雰囲気が、個人という意識が表出されにくくなってしまうのだろう。少し悲しい。普段の服を着てるのを見かけると、誰ですか?あなたは?と目を疑う。そもそも目から入ってきているのか、あの異風な感覚は。まるでさっきまで内股で歩いていた人間が、次の瞬間では堂々とがに股で歩いている人間へと変貌しているくらいの違和感をおぼえる。僕の違和感はどんどんつながってゆくことになる。個性を消す為のカモフラージュの幕を通り、僕は笑顔を失くした訳である。サルも木から滑る。生活という一部であるはずの仕事によって、色々な違和を発見してしまう現実不適合者である僕は、そんなことよりも、衣服を透視する能力や、手相を見るように、相手の手や足についているなにかしらの癖や、脈打つリズムなんて知るチカラが得られたらいいのにな、なんて思う。日常をもっと愉快に軽快に生きていきたい。その為の文章を書きたい。小説とは事実より奇なり。事実よりも事実であるのが小説であり、フィクションであるのではないか。それは昼ドラなどを指し示しているわけではない。昼ドラは昼ドラであり、おれはそんな事情体験したことないので知らない。働いている途中に、すこし気を離した隙に、変なこと考えたりするあの瞬間が小説ではないか。と思うのだ。僕はそういう物語を日記として描いていきたい。いまも少し努力して書いている途中である。難しい。やはりそう簡単には問屋が卸さない。商売をしているつもりはないのだが、公開する以上は多少の商売ッ気も混じるってもんだ。八百屋のピーク時間、店先の主人はいつもとすこし違う甲高く良く通る音なのだが、深く澄んだ声で野菜を売り始める。そういった変化を見逃さない人がいる。その人達は変化に気付く小説家である。変化に気付いただけで、その人はなぜ八百屋の主人がそのような魅力的で変質的なボイスを響き渡らせているのか、と創造するだろう。それはまさしく勝手な妄想の世界である。もしかしたら、その八百屋の主人は夜はゲイバーのママをやっていて、サラリーマンと一緒にカラオケをしているかもしれない。いくら歌っても潰れないのどを獲得した八百屋の主人は、野菜の売り込みにも、八百屋の主人の十八番である和田アキ子を彷彿とさせるメロディティックでハーモニックな柔らかい声を震わせているかもしれない。何かに似ている!と気付くお客さんも、通りすがりもいるものだ。その一瞬の無駄な感覚が、より面白いその後の創作へと繋がるのだ。

工場でたとえば結束の機械の担当をしていると、グゥウィーンガシャン、グゥウィーンガシャン!という一小節が連続して何十分、何時間と続くのだ。バックサウンドは結束する内容物が作られて運ばれてくるベルトコンベアーのモーター音とローラーの回転音、これはもうリズム、音楽としか僕は思えなくて、なんか楽しくなってくる。しかし、隣で作業していた大学生は、一つのことを何時間もするのに耐えられないらしく、ものすごくしんどがっていた。彼には音楽に聴こえなかったのかもしれない。音楽として聞き流していると、まるで結束機と一緒に穏やかな反芻するリズムを奏でるメロディーを有線放送しているカフェテリアへ入り込んだように思えた。僕と結束機さんはコーヒーをミルクたっぷりいれて飲んだ。うまい。僕は結束機さんのペダル部分を踏む、、結束機さんは内容物を瞬時に結束してしまった!まるでライムスターのラップのようにリズミカルに。なんぞ、こいつ、まさかラッパーでもあるのかや!!?と僕は目を白黒させて、汗だくだくになりながら、ブサイクなくちづけが空をきる。変顔!かとおもいきや、途端に冷静になり、右手をあげ、この人に岡山蒜山高原のジャージ牛乳をつかったチーズケーキを。ウェイトレスに言い渡し、また変顔へと戻って行く。僕はただの音楽家と遭遇し、心は踊り、邁進し、財布の中身を奮発した。

 

彼や彼女の性向はただ、僕にとって富んだ偶然にほかならない。