僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

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これらの絵は僕が描いたものである。これらの絵を描く方法というのは、極めて単純でわかりやすい、筈であると思う。僕はなにかをジッと見つめていたり、集中している間に無意識と意識の中間になんとなく意識を流しつつ、モノを見た時にしばしば何らかの顔を見ることがある。面白いことに、それには何故か順序が決まっている。まず、目が浮かび上がり、その次に鼻と口が同時くらいに、次に輪郭、耳、最後に髪の毛。例外として一瞬にして全てが浮かび上がリ見えることも侭ある。ずっと気になってはいたのだが、つい忘れてしまい調べることなく終っていたこの現象に、名前がついているのかわからなかったので調べてみた。

 

パレイドリア効果 ー 雲の形が顔に見えたり、しみの形が動物や虫に見えたりと、不定形の対象物が違ったものに見える現象に代表される。対象物が雲やしみであることは理 解しており、顔や動物ではないという批判力も保っているが、一度そう感じるとなかなかその知覚から逃れられない。熱性疾患の時にも現れやすい。変像とも言 う。(例:人面魚、火星の人面岩、トリノの聖骸布など)

 

wikipediaより引用

 

要するに[錯覚]らしい。

錯覚とは、「対象物に対して、誤った見方、認識をすることで、存在しないものを存在するものとして見なしてしまうこと」である。

その錯覚にはなんと種類があるらしく、それは豊富にも4パターン存在しているようだ。

 

不注意性錯覚 

感動錯覚 

生理的錯覚 

パレイドリア効果

 

以上4種類で構成されているらしい。

 

それぞれの錯覚の説明として具体的に、例えば見間違いや聞き間違い、人違いなど、日常生活ですべて起こりうる不注意が原因の元となっているものや、怖い動画や映画などを見た後に良く起こる、なんでもないドアの開け閉めで生じるドアの関節器具の軋みで非常に恐怖心を煽られたり、後ろや天井に人がなんとなく居て、こっちをみているかのような、そんな感覚を覚えることがあるが、そのような誤った認識のことらしい。

 

僕の場合上で説明した錯覚ももちろんよくあることなのだが、興味深いのは生理的錯覚で、この錯覚は対象となるモノが"ある一定の状態"(私たちからそれを見た時に決まった位置)にある時に自分に起こりうる現象、錯覚らしい。その錯覚の説明文に"シェパード・トーン"という単語がでてきているのを見て、ハッとした。というか、シェパード・トーンの意味がまずわからないので、それも調べてみた。

どうやら、音階が無限に上がり続けたり、下がり続けたりする作用のことらしい。パッヘルベルのカノンのような繰り返し流れるメロディの中で曲の音階が徐々に低くなリ続けたり、高くなり続ける音楽のイメージ。僕はよく一人作曲という突如歌い出して、突如やめる、という謎の衝動にかられ歌うことがあるのだが、それも、このシェパード・トーンの法則に見事にマッチしていると思ったのだ。繰り返しのメロディを口ずさんでは、どんどん高くなっていったり、どんどん低くなっていったりを繰り返す。それは僕が無意識で行っている行為なので、具体的な意味はよくわからない。ただ、非常に心地よく感じるので、よく意味不明な螺旋階段状なる音階を上がったり下りたりしている。

 

まとめると、僕は常に錯覚によって、錯覚と共に生きていることがわかる。そして、僕が去年、日常的に描いていた絵はまさに錯覚から生まれたものであったことも今日判明した。おそらくこの錯覚という作用には、それぞれの人がそれぞれ違ったものを見ている可能性があるとして、この世に同じものは二つと存在することが無いのだろうとも感じている。僕が見た、そう感じているある種の掛け違いや狂いであるといった顔や、目は、ある人からしたら、それは模様かもしれないし、何ものかを指す文字かもしれない。僕にはこのような少し違って世界が見える、錯覚という狂いの範囲がもたらす現象こそが、唯一自分の居場所だと感じることが最近非常に強くなったように感じる。自分の絵、それは自分が発する音であり、電磁波でもあり、声でもあるのではないだろうか。そして表現の表出という意味では、それぞれの人が抱えている特殊な趣向や趣味、好きな場所、好きな空間や広さ、適した照明度合い、強く惹かれる姿や形あるもの、は時にその人自身を指し示している。

私はこういうタイプの人間で、居場所はこういう所がいいと言うことが示せることこそが僕はなによりもすごい才能ではないのだろうかと、最近感じ始めている。それは別に誰に説明するわけでもなくて、ただ、自分から振る舞えばいい。自身が見つけたり、創作したりした個人的なスペース、空間はある種の特殊性を持っている性質上、現実という統合された流れの中では表出しづらい側面もあるが、流れから抜け出して、自身の共有スペースへ逃げ込むことで、自己紹介の旅へお友達を連れて行くことによって、自分を知ってもらい、今まで知りもしなかった素敵な人たちとの出会いで繋げていければ、もしかしたら、今まで居心地が悪かった世界からの脱出を考えられるのではないだろうか。

 

僕は絵を展示することなど考えてもみなかったわけであるが、展示会場で絵を貼ったり、構図を考えたりしている瞬間だけは、そこに居た人たちや、その展示した会場の雰囲気と一緒に混ざり合いながら、共同体の一部として個人から脱出し、さらに個に磨きがかかったような気がした。ドラゴンボールでいうとフュージョンした感覚であり、自分であり、自分ではないような不思議な感覚であり、さらに強力なパワーを手にした状態なのだ。このような経験を経て、僕はさらに可能性を見いだせた気がする。中学生の頃に学際のころに一人でたたずんでいた時、女の先生、足羽先生が作業してて、僕はずっと横でなんか座ってたんだけど、声かけてきてくれて、応答したら、「やっと喋ってくれた」と言われたあの頃ではまったく感じ得なかった感覚を今になって少しだけ感じとることが出来ているような気がする。

これは現実社会での仕事である工場のライン作業という共同、分担作業という、各々の個のチカラを存分に発揮しなければならない場所とはまた違った意味での、新しい融合によりより新たなプラグという流入口から集中力をエネルギータンクに注ぎ込み、今までになかった興奮を感じることが出来た経験だった。僕はだから、発表会とかで急な大爆発をして、みなさんを楽しませようとしますが、何故か一番おれを嫌ってる娘を笑わせるのが僕の仕事だと思っています。

 

ちょっと違うような気がしていますが、おしまい。