読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

僕は不器用です。

何かしら興味のある事をつらつらと書きます。

夢と幻と空間からの演出。

僕は何がやりたいのだろうか。ふとインスタントラーメンを茹でるための湯が沸くのをまちつつ考えていた。瞬間的には答えがでてこなかった。やりたいことなど無いと思っているのだ。つまり僕は今、やりたいことは"無い"が答えなのだ。たしかに毎日やりたいことを探りながら生活しているわけではない。図書館の中を歩く感覚を日常生活の基盤として僕は生活していきたいと思っている。図書館の中を散策していると、ずらっと並んだタイトルの中で気になった本に手を出す感覚。それは偶然ではない感覚。でも選び取れる自由をかみしめる幸福。僕はそういう生活を送りたいと思っている。つまりお前は、読みたい本を選び取って読むのだから、結局はやりたいことをしているのではないか。という"結局"の理論である。最初からやりたいことがあるわけではない。散歩してるとたまたま出くわす色々の中にやりたいとおもうことが浮かび上がるだけである。ほとんどは水に見えている景色の中で、たまに油という水より軽い分子がころがってるだけである。そいつがつまり僕にとってのやりたいことであったということである。やりたいことというのはそういう風な連続の中での"たまたま"なのである。僕にとっては。だからあなたのやりたいことはなんですか?ときかれても大体返答に困る。というか、無い。無いものは答えられないので、無いなぁ〜って答えていると思うし、やりたいことがないんだよなぁ〜とか言ってる筈だ。僕のやりたいことは大体こどものお遊び感覚なので、"真剣であるが、まったく社会的に意味の無い行動"であることが多い。

いや、ちょっと待てよ。まったく社会的に意味の無い行動である、、、とさきほど述べたがそれは行き過ぎた表現かもしれないことを思う。やりたいことには動機がある筈だ。なぜそれをやりたいと思ったのだろうか?人はなぜ望むのだろうか?そこには他者への共感覚が少しでも存在しやしないのだろうか?と僕は考えてみた。

共感覚が存在するとするならば、そのやりたいことの動機や理由を他者に理解してもらうことができるはずだ。そして人は僕がやっていることに対して共感し、それをおもしろいと思ってくれる可能性だってあるわけだ。つまり、なぜそれをやろうとしたのか?が重要であるという考えに僕はいきついた。

 

僕が本来伝えたかったこと(追い求めている事柄)はなんなのだろうか?

 

なぜ、自発的にアニメーターになりたいと感じ、絵を描き、京都アニメーションのアニメ"Kanon"に魅了され感動し、今もまだ絵を描き続けているのか?なぜ、なんでもない街の写真を撮り、坂口恭平さんと赤瀬川源平さんに共感を覚え、大竹しんろうさんや奈良美智さんに憧れたのか?さらにはなぜ、上戸彩さんやでんぱ組inc.に興味を持ち、ファンになっているのだろうか?なぜ、ヒップホップをよく聴いているのだろうか?

 

この ”なぜ” の中には僕しかいない。なぜの中を探ると、その扉が開いて"やぁ、、"と僕が出てくるはずである。僕が経験したこれらの体験は思い切りの良さと、ただの適当なやりたいことをやってきた中での様々な選択の結果である。そうしてきたことの意味まではあまり深く考えずに、やってきたいろいろなことを掘り返すことで自分を傍観す。つまり自分探しとは、客観的に己を監視することと近いのではないか。けっして海外へいくことではない。海外へいくというのは、誰も自分のことをしらない土地へ行くことで必然的に自己について開放的になり、あたしい刺激に触れてより興味の対象を増やすことなのだろうが、それはあたらしく自分を開くための手段であって、本当の自分(の思考や行動パターン)を知ることとは違うと思う。知ることについては、普段生活している中から探り当てるしか手の打ちようが無いように僕は思う。

人は夢を見る。僕は例えば小説を読む。小説は僕にとって夢である。小説とは様々な登場人物に時代背景と舞台や景色、気温、声色、表情、匂い。紙の上の文字に反応し僕らはこれらの情報を受け取りながら、映像を構築し、行ったこともない場所へ彷徨うわけだ。これを僕は"夢をみている"と表現したい。夢を見ることとは想像した空間の中で自分だけが体験する唯一無二の体験、経験であることだと思う。そこに果たして共感性があるのか?一言でいうならば、あると思う。無いと不朽の名作、夏目漱石の三四郎!なんてことはあり得ないからだ。それぞれが紙の上に描かれた文字を拾い、頭の中ではその拾い上げた文字から様々な空間を創りだしていると思う。その空間が放つ光の色や、匂いはまるで違うだろう。同じ文章をよんでいるにも関わらず、日本をえがいている人もいれば、中国をえがいている人もいるだろう、、ということなのだ。みんな夢を見ているのだ。例えば追いかけられている夢を観る人がいる。おそろしい何かに追いかけられていると夢を見ている当事者はいう。この夢についてある二人が会話したとする。同じ夢を見ているもの同士がつながることのできる情報がここにはある。つまりおそろしいものに追われているという具体的な内容がコミュニケーションの基盤となり、その夢の内容を分かち合えるやりとりが成立する。しかし、そのおそろしいものの正体とは?・・などより詳細を話し合い追求していくことで、いろいろと齟齬がうまれる。場所は?周りの風景はどんなだったか?どのくらいのスピードで追っかけてきたのか?僕はよくスーパーマーケットで追いかけられていた。明かりはなぜか薄暗く、電気がついている場所もあれば、ついていない電燈もあった。とにかく缶詰のおおいスーパーで僕はそれをなぎ倒しながら走っていた。そして隠れていた。ホールトマトの缶詰のパッケージがすごく脳裏に焼き付いている。その日の晩ご飯はミートソーススパゲティーにしようか、とか夢の中で考えながら逃げている。夢とはまことに勝手なものだ。

夢は現実でも観る。現実の夢とは、小説やアニメーション、マンガといったエンタメからそれは蒸発してくる煙の香りに似ている。その煙を吸うことが、それらのエンタメを楽しむための第一段階である。夢を見だすと、現実世界では通用しないようなヤバい錯覚が大抵の人々に起こりうる。ちなみにこの煙の匂いを嗅ぐことは現実世界ではNGとされている。夢を観られる条件、場所、空間というのはだいたい善良な人たちに定められている。夢を観ると、マンガの主人公がどんな声で喋っているのか想像・創造してしまう。いや、想像・創造ではとどまることはなく、決めつけてしまう。こんな声に違いない。と錯覚してしまうのだ。しかしその決めつけは、アヤフヤなものだ。夢だから正確に決めつけることができないのだ。小説の登場人物の表情までくっきり見えることがある。これも煙を吸ったための錯覚だ。本当は文字しか追ってない筈の人間がそんな錯覚を観ることが出来る。この正体は夢である。そんな中、アニメーションは実はかなり具体的だ。色がついていて、音があり、風景がかかれていて、しかも動く。こんな情報を与えられていては夢が見られない、、と思うかもしれない。しかもカメラワークまでついているから、見たい場所が観られない。舞台裏には夢を操作する操作人がいるようである。そう、操作人は必ず存在する。これらエンタメは人間が作り上げているからだ。

では、アニメーションの何が夢なんだ?と人は問う。別に大したことじゃない。しらない人間が登場して、活躍しているのを見て、そこに自分を投影し、自分が興奮し泣き、笑う。これが夢の正体だ。ある人は同じものをみても、感動したり、しなかったりする。それはこれが現実ではなく、夢であるということを示しているのだ。夢というのは個々人の想像から生まれる。つまり創造。ぼんやり形作ることで、自らの感情を綱渡りする。自分の感情には"つまみ"が付いており、それをひねることによって自らの感情ボリュームを調節していく。よって夢という存在は曖昧なので、感情ボリュームを大きく調節する人もいれば、少ない調節ですませる人もいるのだ。自分を操縦しているのはエンタメという夢ではなく、現実世界にいる自分なのではないか、ということ。現実世界の自分に感情ボリュームを調節され、無意識に踊り狂っている自分という存在がエンタメを見ている現実の自分の中に存在し、その踊り狂ってる自分こそが本当のエンタメであるということに。僕は気付いたのかもしれない。

 

僕が何を言っているのか意味不明である、という人も居ると思う。それはこれがエンタメであり、夢だからだ。。というのは言い逃れだろうけども。

僕はよく"幻"をみる。とくに街を歩いていると観る。街、といってもとくに顕著に幻が見られる区画、というかそんな場所が存在する。岡山の旭川沿いの集落である。とても趣のある家が立ち並んでいる。あそこは芸術家が多い気がする。旭川にはたまに流れ木が漂流してくるのだけど、その流れ木を植木鉢に差し込み飾っている家が普通にあったりする。これ、めちゃくちゃカッコいいです。まさに僕は何を目の前にしているのか戸惑い出す瞬間が訪れる。空間を演出している方々がいらっしゃる。街単位で。すごくないっすか、、と。。僕がまさにやりたかったのはこれじゃないか。。と思うのだ。明らかに異国の風が流れ込んできている。その家がすごいのもあるけど、周りの家達もすごいのが面白い。そこだけに流れ込んでいる風土ではないのだ。おもしろい散歩道というものがたとえばある。いや、存在する。必ず。その散歩道を僕は麻薬道とでも呼べばいいのだろうか。これは麻薬である。そこを歩くとドラッグを吸い上げたかのようにレインボーブリッジが開ける。写真もバシャバシャ撮ってしまう。いつもと同じ風景のくせして、なんて魅力的な間違いを犯してくれているのだ、ここは。最高なドラッグ道である。そこには赤瀬川源平さんや、坂口恭平さんが居る気がする。いや、いないのだが・・。

幻とはインスピレーションである。野生動物は何処に獲物がいるのかを検索する。その検索方法はその動物が永年かけて培ってきた狩猟方法であり、独自の勘でもある。鍛錬の末身につけた生きていくための手段。動物の強さ。人間にもそれが備わっている。しかしそれは会社にはいってお金を稼ぐようなことを意味しているわけではない。会社に入ってどうやって人と付き合っていけば上手くいくか、自分の立ち位置を確認しながら自分の居場所をさがしていくようなセンサーは確かに生存方法の検索というインスピレーションを使った実践的な行動であると思う。しかし、ココではそういう人間社会的な枠に収まりきることの無い生存本能としての検索方法というものである。僕はここに来たことがあるのではないか?と異国の地を踏んで思うこと。歩いたことも無い道を一回歩いただけで気持ちが急に急激に上がり始めるレインボーロード。まるでガチャポンの機械に100円玉を入れて、ネジに手をかけた時のあの興奮に似ている。一回捻るとさらにドキドキが増すあの感覚はまさに幻。現実には色んな幻が潜んでいる。幻は生き物である。だから潜んでいるんだ。それらに僕らが気付いてあげなければならない。存在しているはずの幻には僕らは普段気付きにくく出来ている。麻薬というのは現物と金が重視されていて、その中身、内容にはあまり重視されていないような気がする。麻薬がみせてくれる内容がどのようなレインボーブリッジなのかは知らないが、僕がみたドラマや映画の中ではそれらを知った人物はかならず、"大金だすから、アレをくれ"っていうようなやりとりをしている。そうではない。それは現実である。金とアレの存在は現実である。しかし、麻薬を使ったときのその当人がみた現象、それは幻である。その内容こそが、現実とかけ離れた幻である。

 

僕は幻によく"遭遇"する。言い方を変えてみた。幻は生き物ではないか、と疑ってみる。

 

僕の伝えたいこととは一言では表せない。人というのはアメーバと似ている。流動体である。流れ動く身である。思考である。表現物質体である。隊である。SNS

 

 一日たてば明日がわからない。

 

今日も幻と出会う。